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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(27)三好長慶 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(27)三好長慶の解答

タテ

A

a

父の元長が主君の策略により敗死すると、長慶は阿波の○○○○のもとに身を寄せた。

A

f

1560年、長慶は高屋城などを攻め落とし○○○○を追放して河内を版図に加えた。

B

b

長慶は1560年に○○○城を居城とし、64年にこの城で死去した。

B

f

三好一族の○○は、長慶の父である元長と対立し、讒言により死に追いやった。後に長慶とも対立し、1549年に江口の戦いで長慶に敗れて討死した。

C

a

1540年、長慶は○○○○○の娘を正室とした。

E

a

越前の武将である○○○○(教景)は、手本とすべき人物として今川義元・武田信玄・上杉謙信・毛利元就・織田信長とともに長慶の名を挙げ、その才を評価している。

E

h

1553年、長慶は越水城から○○城に本城を移した。

F

f

1548年、長慶は主君であり父の仇でもある○○○○に叛旗を翻し、翌年江口の戦いで勝利して京都に入り三好政権を樹立した。

G

b

大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派の寺院。長慶が父・元長の菩提所とするために創建した寺であり、長慶の墓がある。

G

e

室町幕府最後の管領。長慶に擁立されて管領となったが、実権は完全に長慶に掌握されていた。

H

a

三好氏は、清和源氏の一流である阿波○○○氏を出自とする。

H

d

三好○○は長慶の弟である十河一存の子であり、長慶の嫡子が病死すると三好家の後継者とされ、長慶の死後に跡を継いだ。

H

f

長慶の通称。

I

a

1547年に長慶は舎利寺の戦いで○○○○らを破り、翌年に和睦してその娘と再婚した。

I

f

室町幕府十三代将軍。長慶によりしばしば京都を追われたが、1558年に長慶と和睦した。しかし、三好氏の傀儡となるのを拒み、諸国の大名と修交して政治的手腕を発揮したため、長慶死後に三好氏の襲撃を受けて殺害された。

ヨコ

a

B

1563年に嫡子の○○が病死すると長慶は大きく落胆して呆然と過ごす日が多くなり、自身もその翌年に病死した。

a

D

長慶の父の三好元長は、1532年に主君の策略により○○○○に攻められ自害した。

b

D

1560年、長慶は幕府の○○○(御○○○)に任じられた。

c

B

長慶の幼名。

c

F

○○○○は長慶の父・元長と対立し、策謀により自害に追い込んだ。後に長慶の帰参を仲介したがやがて対立するに至り、1542年に太平寺の戦いで長慶らに敗れて死亡した。

d

A

長慶の時代に三好氏の領土は十数ヶ国にまたがる広大なものとなり、畿内は長慶によって、三好氏の本国である四国は弟の○○(義賢)によって統治された。

d

D

1562年、長慶の弟の義賢が○○○の戦いで討死し、三好政権は大きな痛手を受けた。

e

A

1561年、○○○○(承禎)らが挙兵し、三好氏は一時京都を奪われた。

e

E

長慶の死後に三好政権を支えた三人の重臣(三好長逸・三好政康・石成友通)を○○○○○と呼ぶ。

f

B

1551年、政所執事○○○○の屋敷に招かれていた長慶が斬りかかられ負傷するという暗殺未遂事件が起こった。

g

C

人望の厚かった弟の○○○○を殺害するなど、晩年の長慶は精神に異常を来していたとされる。

g

G

長慶は当時の武将のなかでも一級の文化人であり、特に○○に熱心であった。

h

A

室町幕府十二代将軍。生涯に何度も京都から落ち延びており、1549年に長慶により京都を追われると、再び京都に入ることができないまま翌年病死した。

i

B

長慶の家臣。はじめ右筆として長慶に仕え、次いで部将として多くの武功を挙げ大和一国を与えられ、その後も三好政権内での地位を高めた。長慶の死後は、他の重臣たちと政権を二分した。

i

F

○○○○は四国の三好氏に仕えた有力な家臣であり、長慶死後の三好政権を支えてフロイスの『日本史』では三好長逸・三好政康・石成友通とともに「天下の四人の執政」と称された。

ヒント

解答

(26)大内義隆の解答

タテ

A

a

義隆の母は長門守護代○○○○の娘である。

A

f

義隆の父の義興は、前将軍の○○○○(義材・義尹)を擁して大軍を率いて上洛し、幕政を掌握した。

B

c

1551年、義隆は家臣の陶隆房(晴賢)の謀叛に遭い○○○で自害した。

B

g

義隆は○○○天皇即位式の資金を献上するなどして、1536年に念願であった大宰大弐に任じられた。

C

d

陶隆房の謀叛に際しては、関白○○○○をはじめ、義隆の庇護を受け山口に下向していた公卿もことごとく殺害された。

E

a

大宰大弐に任官した義隆は、○○○と呼ばれる復古的な様式の文書を発給した。

E

f

陶隆房の謀叛計画は、当初は義隆を隠居させ義隆の嫡子の○○を立てるというものであった。

F

b

○○○○は義隆に従属してその権勢を背景に勢力を伸ばし、謀反により大内氏の実権を掌握した陶晴賢を滅ぼすなどして中国地方のほぼ全域に領土を広げた。

F

f

義隆が家督を相続する前の1523年に寧波の乱が起こり、以後は大内氏が○○○○と呼ばれる日明貿易を独占した。

G

c

石見津和野城主。大内氏から大宮姫を迎えて妻とした。1551年に義隆が陶隆房の謀叛により死亡すると、53年に陶氏打倒の兵を挙げ、55年の再挙兵で毛利氏と呼応して陶氏を滅ぼした。

G

g

1541年、義隆は銀山城を攻め落とし安芸守護の○○氏を実質的に滅ぼした。

H

b

1537年、義隆は○○○○から幕政に参画するよう求められて上洛を計画したが、領国経営を重視して中止した。

H

f

○○○○は、義隆の父・義興の代から長門守護代を務めた大内氏の重臣。陶隆房の謀叛の際には消極的ながらも隆房を支持した。

I

a

肥前の戦国大名。分家の出身で本家の家督を継いだため大内氏と結んで後ろ盾とし、義隆から山城守に推挙され「隆」の字を与えられて改名した。

I

g

義隆は○○○の玉堂宗条から禅を学んだほか、天台宗・真言宗の高僧を招いて密教の仏事を行った。

ヨコ

a

A

○○○○は義隆の信任を受けて奉行人を務めた文治派の中心人物であり、陶隆房を中心とする武断派から敵視され、隆房の叛乱に際して殺害された。

a

F

大内氏は、百済の聖明王の第三子○○○○を祖とすると称する氏族である。

b

B

義隆自身はキリシタンとならなかったが、○○○○を引見して領内での布教を許可した。

b

G

1542年、義隆は大軍を率いて出雲の尼子氏を攻めたが難航し、翌年退却する際に養子の○○が水死するという結果になった。

c

B

1548年、義隆は将軍以外の武将としては異例の○○○という高位を与えられた。

d

D

義隆は朝廷から○○○○を招いて政務にあたらせるなど、有職故実を重視した。

e

A

有職故実に精通した公卿である三条西実隆の著作『○○○○○』は、有職故実に多大な関心を払った大内義興・義隆父子との問答をまとめたものである。

f

A

8ヶ国の守護に任じられ、中国地方において大きな勢力を有した大名。1542年から翌年にかけて義隆が行った遠征で大内氏を破った。

f

G

室町時代に大内氏により出版された刊本を「○○○」と呼ぶ。義隆の代には枡形本『聚分韻略』が刊行された。

g

D

義隆の死後に陶隆房により擁立された大友晴英は、大内○○と改名して大内氏の当主となった。

h

C

謀叛を起こして義隆を自害に追い込んだ陶隆房は、○○○○(義鎮)の弟で大内氏の血を引く大友晴英を傀儡の当主として迎えた。

h

G

1528年に大内氏の家督を継いだ義隆は、陶隆房の父である○○○の補佐を受けて安定した統治を行った。

i

B

○○○○は北九州の戦国大名。九州への進出を図る大内氏と先祖代々対立してきた。1536年、大宰大弐に任官して大義名分を得た義隆により滅ぼされた。

i

G

1541年、義隆は○○神社の神主家である友田氏を滅ぼして桜尾城を支配下に収めた。

ヒント

解答