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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(29)石田三成 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(29)石田三成の解答

タテ

A

a

関ヶ原の戦いにおいて三成ら西軍首脳は○○○○を挙兵の盟主とすることを決め、西軍総大将として擁立した。

A

f

三成が建立した○○○寿聖院は、三成が関ヶ原の戦いに敗れたのち、当時12~13歳であった嫡子が出家した寺院として知られる。

B

c

三成は豊臣政権の内政面において大きく貢献した。なかでも秀吉が全国規模で実施した田畑の面積や収量の調査である○○○○に関しては早くから奉行として参画した。

B

h

三成は豊臣政権の中枢にあって政務に携わっていたため、所領の支配は三成に代わって父の○○が担った。

C

a

1587年、豊臣秀吉の九州侵攻を受けて○○○○は秀吉に降伏し、○○○○が在京することなどを条件として許された。一年余りに及んだ在京中は三成と細川幽斎がなにかと面倒をみて厚くもてなし、○○○○はこれに深く感謝した。

C

f

○○○○は、豊臣政権下で三成とともに奉行を務めた。三成から徳川家康に対する挙兵の計画を打ち明けられた際には思いとどまるよう説得したが、三成の決意が固いことを知ると親友である三成のために行動をともにし、関ヶ原で奮戦の末に自害した。

D

c

三成の幼名。

D

h

1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は、家康の家臣である鳥居元忠が守る○○城および細川幽斎が守る田辺城の攻略を開始した。

E

f

1600年7月、前田玄以ら3人の奉行は、「○○(徳川家康の官職)ちがひの条々」という家康を弾劾する檄文を諸大名に送り、挙兵への参加を求めた。三成は当時謹慎中であったため署名はしていないが、この文書は事実上三成によって発せられたものといえる。

E

h

1597年に始まった○○の役は、翌98年の豊臣秀吉の死により在朝鮮部隊の撤収が決定され、三成は浅野長政とともに撤収の任にあたった。

F

a

1583年の○○○の戦いでは、三成はいわゆる○○○七本槍につぐ奮闘を見せた。

F

e

三成は、豊臣秀吉が織田家の部将として○○城主であった頃に秀吉に見出されて仕え始めた。

G

b

1589年、豊臣秀吉による北条氏攻めに際して三成は館林城・忍城などの攻撃を指揮し、忍城では城を水攻めにするため○○○と呼ばれる全長28kmに及ぶ堤を築いたものの水攻めは失敗し、先に小田原城が降伏したことによりようやく忍城も開城した。

G

e

石田○○は三成の兄で、1593年から99年まで堺の奉行を務めた。関ヶ原の戦いでは三成の居城を守備したが、西軍の敗北後に東軍に城を攻められ、一族とともに自害した。

H

a

1592年の○○の役に際し、三成は渡航部隊の輸送や在朝鮮部隊の督励などを務め、碧蹄館の戦いでは大勝を収めた。

H

e

関ヶ原での本戦の3日前に出された書状のなかで三成は西軍諸将の士気の低さを嘆いているが、そのようななかで、○○○○○の一命を捨てて働こうという覚悟を賞賛し、島津義弘・小西行長も同様であると述べている。

I

a

○○○○は関ヶ原の戦いで三成に与し、徳川家康の弾劾状に署名し諸将に檄を飛ばしたが、一方で三成の挙兵準備の風説を家康の家臣に通報するなど保身工作も行っていた。

I

f

1599年、三成が○○○○ら7人の武将の襲撃を受け、引退に追い込まれるという事件が起こった。○○○○は朝鮮出兵の折に三成らの報告により豊臣秀吉の怒りを買って召喚されており、三成を深く恨んだとされている。

ヨコ

a

A

1587年に九州を平定した豊臣秀吉は凱旋の途中で筑前国筥崎にしばらく滞在し、大友氏と龍造寺氏との戦いの兵火により荒廃していた○○の町の再興を三成らに命じた。

a

D

岡崎10万石の領主であった○○○○は関ヶ原の戦いで東軍に属し、本戦での勝利後に三成の居城を攻略し、逃走した三成を捕らえるなどの功を挙げた。これらの功により、筑後一国32万5000石を与えられ、柳川城を居城とした。

b

B

1591年、南部一族の○○○○が南部信直に対し反乱を起こすと信直は豊臣秀吉に救援を要請したため、秀吉は徳川家康らの軍を派遣し、三成も軍監としてこれに同行した。

b

G

三成は、自身の所領が4万石であった時にそのうちの1万5000石を与えるという破格の待遇で○○○(清興)を召し抱えたとされる。○○○は関ヶ原の戦いで石田隊の先鋒として黒田長政隊などと戦い討ち死にしたが、その奮戦ぶりは語り草となった。

c

E

1600年、関ヶ原の戦いに敗れて捕らえられた三成は、京都の○○河原で処刑された。

c

G

1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は、近江国の○○川に関を設けて諸大名が東下するのを阻止した。

d

D

関ヶ原での本戦において当初戦局は一進一退を続け容易に勝負が決しなかったが、かねて東軍に内応を約束していた○○○○○が寝返って西軍を攻撃し始めたのを機に東軍への寝返りが相次ぎ、西軍は総崩れとなった。

e

A

1595年、秀吉から関白職を譲られていた○○○○が謀叛の疑いで切腹させられるという事件が起こった。三成は秀吉の意を受けて○○○○の行動を調査するなどこの事件に関与していたため、事件に連座して処罰された大名たちから恨まれることとなった。

e

E

○○○○○は毛利氏の外交僧として活動し、後に伊予国などに所領を与えられて豊臣政権を構成する一大名ともなった。関ヶ原の戦いでは三成らとともに西軍の挙兵を主導し、戦後三成・小西行長とともに処刑された。

f

D

1585年に関白に任じられた豊臣秀吉は、慣例に従って十二人の諸大夫を置いた。三成はその一人に選ばれ、従五位下○○少輔に任じられた。

f

H

三成の嫡子の○○は、三成が関ヶ原の戦いで敗れると仏門に入れられ、徳川家康への助命嘆願が認められて僧として長寿を全うしたとされるが異説もある。

g

A

1600年、徳川家康が会津の○○○○を攻めるため上方を離れると、三成は上方で挙兵し諸大名に参集を呼びかけた。

g

F

1591年、○○○が秀吉から切腹を命じられるという事件が起きた。この事件の背景として、秀吉側近として大きな勢力を形成していた○○○と、同じく秀吉側近であった三成らの一派との勢力争いを想定する見方がある。

h

D

1591年、前年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした際に参陣しなかったため戦後に改易された○○○○と葛西晴信の旧領で旧臣らによる一揆が起こり、三成は陸奥に派遣されたが、伊達政宗らにより一揆が鎮圧されたため相馬から引き返した。

i

A

1595年、三成は北近江に19万4000石の領地を与えられ、○○○城主となった。

i

E

一般に、豊臣政権の実務を担った三成ら5人の家臣を○○○、秀吉死後の政権を担当した徳川家康ら5人の有力大名を五大老と呼ぶが、当時そのような特定の職名が存在したわけではなく、○○○の側では自らを「年寄」、五大老を「奉行」と称していた。

ヒント

解答

(28)明智光秀の解答

タテ

A

b

1575年、光秀は九州の名族である○○の姓と日向守の官職を与えられ、以後○○日向守と名乗った。

A

d

本能寺の変の際、織田信長の嫡男の信忠は妙覚寺に宿泊していた。光秀の謀叛を知ると本能寺に入ろうとしたが果たせず、皇太子誠仁親王を禁裏に移して○○○○に立て籠もり、防戦の末に自害した。

B

a

1582年6月2日に織田信長を討った光秀が、同月13日には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて滅んだという故事から、きわめて短い間しか地位や権力を保てないことを意味する「○○○○」という言葉が生まれた。

b

g

山崎の戦いの際、筒井順慶が○○○で形勢を窺ったという話が一般に流布し、日和見的態度を意味する「○○○」という言葉の元となったが、実際には○○○に陣を置いたのは光秀の方であり、ここで順慶の来援を待ったが順慶は静観の構えを崩さなかった。

C

e

本能寺の変の直前、光秀は愛宕山に参詣し、○○の第一人者として知られた里村紹巴らを交えて○○の会を催した。ここで光秀が詠んだ「ときは今 あめが下知る 五月かな」の発句が有名である。

D

c

1571年に延暦寺を焼き討ちした織田信長は、光秀に近江国滋賀郡の支配を命じた。光秀は○○の地に築城を開始し、72年にはほぼ完成した。フロイスの『日本史』によれば、当時○○城は安土城に次ぐ天下第二の名城と評されたという。

E

a

1568年に○○○○が織田信長を頼った際に光秀はその仲介をしたとされる。以後しばらく、光秀は○○○○に仕える幕臣であると同時に信長の家臣でもあるという特殊な立場にあった。

E

f

光秀の次女の玉子はキリスト教の洗礼を受け、○○○○という洗礼名を贈られた。細川忠興の夫人であり、一般には細川○○○○の名で知られる。

F

d

1580年、織田信長は重臣である○○○○○と子の信栄に対して突如譴責状を発し、織田家から追放した。信長はその譴責状で、○○○○○の怠慢と対比する形で、光秀の丹波平定の功績を第一に挙げて賞賛した。

G

f

1577年、光秀は織田信長に背いた○○○○が籠もる信貴山城の攻撃に参加し、これを滅ぼした。

H

a

明智○○は光秀の家臣で、光秀の娘婿となり明智姓を名乗った。山崎の戦いの敗報を受け、光秀の妻子を殺して自害するため、敵軍に封鎖された陸路を避けて騎馬で琵琶湖を渡ったという「左馬助湖水渡り」の伝説で知られる。

H

f

羽柴秀吉は本能寺の変の報を受けて中国路を引き返す間に、畿内の諸将が光秀に味方するのを阻止するため摂津茨木城主○○○○らに「織田信長・信忠父子は無事近江に逃れた」との偽情報を流すなどの工作を行った。

I

a

1578年、有岡城主○○○○が織田信長に背くと、光秀の娘が○○○○の嫡子村次に嫁いでいた縁もあって光秀が説得のため派遣された。

I

f

本能寺の変に際して、織田信忠は嫡男の○○○(信長の嫡孫。後の織田秀信)を家臣の前田玄以に託した。玄以は○○○を連れて京都を脱出し、尾張に逃れた。

ヨコ

a

A

織田信長に仕える前の光秀の経歴に関しては不明な点が多いが、『細川家記』などによれば越前の○○○○に仕えた後に信長に転仕したという。

a

F

1582年6月13日、本能寺の変後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて勝龍寺城に入った光秀は、暗夜に乗じて城を抜け出し落ち延びようとしたが、○○○まで来たところで落ち武者狩りの襲撃に遭って深手を負い、その場で自害したとされる。

b

C

1575年に光秀は丹波攻略を開始したが、それまで光秀に従っていた八上城主○○○○○が突如背いたため敗走し、丹波攻略は長期戦を余儀なくされた。79年に八上城は落城し、降伏した○○○○○とその兄弟は織田信長のもとに送られ、磔にされた。

c

A

1573年に○○○○が京都所司代に任じられると、光秀はその補佐として京都の行政を担った。

c

F

1582年5月、光秀は織田信長のもとを訪れた○○○○の饗応役を務めたが、羽柴秀吉から毛利の大軍が出陣したとの報が入ったため饗応役を解かれ、秀吉への加勢を命じられた。

d

B

光秀は丹波攻略の拠点とするため1577年頃丹波○○城を築城し、平定後の80年に丹波一国を拝領した。

d

F

1582年6月12日に羽柴軍に○○○を占拠され、翌13日の戦闘で光秀は敗北した(山崎の戦い)。

e

B

○○○○(苗字は長岡とも)は光秀の与力であり、姻戚関係もあったが、本能寺の変後すぐに剃髪して幽斎と号し、光秀への協力を断った。○○○○や筒井順慶など親密な関係にあった武将の協力を得られなかったことは光秀にとって大きな誤算であった。

e

F

豊臣秀吉は御伽衆の○○○○に命じて、光秀の討伐を題材とした「明智討」などの、自身の事績を喧伝するための新作能を作らせた。

f

A

光秀の重臣である斎藤利三の妹が○○○○元親の妻である縁から光秀は織田家と○○○○家の取次を務めた。信長の○○○○家に対する政策への不満に、本能寺の変の一因を求める説が存在する。

g

C

光秀は通称を○○○という。

g

H

織田信長の三男の○○は四国攻略の総大将に任じられたが、堺から出航する直前に本能寺の変の報がもたらされると軍は混乱して兵の大半が逃亡してしまったため単独で光秀と戦うことができず、羽柴秀吉の軍と合流して山崎の戦いで光秀を破った。

h

A

織田信長の弟・信行の子。本能寺の変の際は四国攻略に備えて大坂城にいたが、光秀の娘婿であったために共謀を疑われて殺害された。

i

A

○○○○(荻野悪右衛門)は丹波の豪族で、幼少の当主に代わって一族を率いた。1570年に織田信長に従ったが後に背き、光秀の丹波平定に抵抗した。78年に○○○○が黒井城で没すると、その翌年に光秀は黒井城を攻略し、これにより丹波平定は概ね完了した。

i

F

光秀の出自に関しては、土岐氏の支流で○○国明智城の城主の子ともいわれるが定かではない。しかし、○○国の出身であることは確かであると考えられる。

i

H

1582年6月2日に織田信長を討った光秀は、5日に○○城を占領し、信長の財宝を家臣たちに分け与えた。

ヒント

解答