知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(14)徳川家康 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール

- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(14)徳川家康の解答
タテ
A |
a |
家康は将軍職を秀忠に譲ると「○○○」(将軍の父や前将軍の尊称)と呼ばれ、秀忠との二元政治を行った。 |
A |
e |
豊臣氏が滅亡し、徳川政権の下で泰平の世が訪れたことを、時の年号を冠して○○○○と呼ぶ。 |
B |
b |
家康の幼名。 |
B |
g |
家康の覇業に大きな功績のあった酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人の重臣を、「徳川○○○」と称する。 |
C |
a |
1614年、○○○の鐘の銘文に関して徳川家が豊臣家を難詰するという、いわゆる「○○○鐘銘事件」が起こった。 |
C |
e |
秀吉に仕え、豊臣政権の内政に大きく貢献した。秀吉の死後、家康を打倒するため諸大名に檄を飛ばして挙兵したが、関ヶ原の戦いで敗れて小西行長・安国寺恵瓊とともに処刑された。 |
D |
g |
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた際に家康は堺に滞在しており、忍びの術に長けた甲賀者に護衛されながら決死の○○○を果たし三河に帰国した。 |
E |
e |
1572年、西上を開始し遠江に侵入した武田信玄に対して、家康は織田信長から派遣された援軍とともに攻撃を仕掛けたが惨敗した。この戦いを○○○○の戦いと呼ぶ。 |
F |
a |
徳川氏が豊臣氏を滅ぼした、1614年冬と1615年夏の2度にわたる戦役を総称して○○の陣と呼ぶ。 |
F |
c |
家康の命により作成された、大名を統制するための幕府の基本法。二代将軍・秀忠の名で発布された元和令以降、八代将軍・吉宗まで将軍の代替わりごとに改定された。 |
G |
c |
1600年に豊後に漂着したリーフデ号の乗員でオランダ人のヤン・ヨーステンは、「耶揚子(やようす)」という日本名を与えられ家康に仕えた。現在の東京都中央区○○○は、耶揚子の江戸邸があったことによる地名である。 |
G |
h |
○○城は現在の静岡市に家康によって築かれた城で、家康は将軍職を秀忠に譲った後にこの城を居城とした。 |
H |
c |
1615年、家康が豊臣秀吉の子である○○を攻め滅ぼし、秀吉が創始した豊臣氏は滅亡した。 |
H |
g |
1570年、織田・徳川の連合軍が浅井・朝倉の連合軍を破った戦いを○○の戦いと呼ぶ。 |
I |
a |
1600年、会津の○○○○が上洛を拒否したことを口実に、家康は会津遠征のため伏見を発った。これは、あえて上方を離れることにより反徳川派大名の挙兵を誘い、合戦でこれを滅ぼすための行動であったとされる。 |
I |
f |
1547年、家康は人質として今川義元のもとに送られる途中で、田原城主・戸田康光の寝返りにより○○○○に引き渡され、以後2年間、尾張の熱田で人質として過ごすこととなった。 |
ヨコ
a |
B |
家康の母方の伯父で、東尾張から西三河にかけて大きな勢力を持った○○○○が今川方から織田方に転じたため家康の母・お大は離縁され、家康は幼くして母親と別れることとなった。 |
a |
G |
家康は、遺骸を駿河国○○○に埋葬し、一周忌を過ぎてから下野国日光山に移すよう遺言して死去した。両山には、家康を祭神とする東照宮が建てられた。 |
b |
A |
家康の次男の○○は、はじめ羽柴家、続いて結城家に養子に出され、同家の家督を相続した。 |
b |
D |
織田信長の子の信雄から援助を求められた家康が、信長の死後畿内を支配下に置いた羽柴秀吉と戦った戦役を○○・○○○の戦いと呼ぶ。 |
c |
B |
本願寺教団により組織された反体制運動。三河国で発生した際には家康の家臣団を二分するほどの大きな動乱へと発展した。 |
d |
A |
家康の子を祖とする尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の総称。 |
d |
D |
家康は死後、朝廷から○○○○○の神号を勅許された。 |
e |
A |
北条氏康の五男。今川家に人質に出されていた時期に、同様に人質となっていた家康と知り合いになり、秀吉の北条氏攻めでは家康の勧告を受けて降伏した。 |
e |
G |
いわゆる○○○とは、家康をはじめとする豊臣政権の5人の有力な大名の総称である。 |
f |
B |
家康の父は松平○○である。 |
f |
D |
中国地方の大名で、関ヶ原の戦いにおける西軍総大将。自身は戦いに参加しなかったが、総大将としての責を問われて大きく減封された。 |
f |
H |
1542年、家康は三河国○○城で誕生した。 |
g |
F |
松平○○は家康の長男であったが1579年に切腹を命じられた。 |
h |
E |
1603年、家康は後陽成天皇から○○○○○に任じられた。 |
i |
A |
江戸幕府の譜代大名のなかでも、松平氏(後の徳川氏)三代の信光が文明年間に○○に進出して以来、松平氏が○○城を居城とした時代からの最古参の譜代を○○譜代と呼ぶ。 |
i |
C |
家康は、1600年にリーフデ号で豊後に漂着したイギリス人のウィリアム・アダムズに○○○○という日本名を与え、同僚のヤン・ヨーステンとともに外交顧問とした。 |
i |
G |
1560年、○○○の戦いで今川義元が織田信長に敗れ討ち死にすると家康は今川氏から独立し、後に信長と同盟を結んだ。 |
ヒント
解答
(13)豊臣秀吉の解答
タテ
A |
a |
秀吉は、肥前国○○○を朝鮮出兵の前線基地に定め、城を築いた。同地には全国の大名が陣屋を建て、それを相手に商売を目論んだ多くの商工業者も集住したため大城下町として繁栄したが、秀吉が死んで戦争が終結すると衰退した。 |
A |
d |
1561年、秀吉は杉原定利の娘のねねと結婚し、この頃から○○○○○秀吉と名乗るようになった。 |
B |
b |
1585年、秀吉は関白に任じられた。関白は古来藤原氏のなかでも○○○(摂関家)と呼ばれる家格の者だけが就ける職であったが、秀吉は近衛前久の養子となり、藤原秀吉として就任した。 |
B |
e |
1582年に本能寺の変で織田信長が死去した時、秀吉は毛利方の武将・清水宗治が籠もる備中○○城を水攻めにより攻囲している最中であった。 |
B |
h |
秀吉の弟の○○は、中国地方攻略で戦功を立て、四国攻略では秀吉の代理を務めるなど、常に兄の片腕としてこれを補佐し続けた。大和郡山を居城として大和大納言と呼ばれ、豊臣政権の中枢にあったが、兄に先立ち1591年に死去した。 |
C |
a |
1588年、秀吉は全国に及ぶ○○○を発令した。これは刀の使用を武士のみに認め、身分制を確立しようとする政策であった。 |
C |
f |
織田家の武将である○○○○は常に柴田勝家に属して行動していたが、一方で秀吉とも親しかった。そのため、勝家と秀吉が争った際、はじめ勝家側であったが秀吉の誘いを受けて降伏し、以後秀吉に属した。三女の摩阿姫は秀吉の側室となった。 |
D |
b |
1582年、織田信長が明智光秀の謀叛により死去すると、秀吉は毛利家と和議を結んで強行軍で姫路城に引き返し、○○の戦いで光秀を破った。 |
D |
f |
秀吉の死後、朝廷から秀吉に対して豊国○○○の神号が贈られた。 |
E |
b |
1598年、朝鮮出兵が泥沼化するなかで秀吉が行った園遊会。数多くの女房衆に3度の衣替えをさせた。その衣装調達を命じられた島津家は莫大な出費を強いられ、そのしわ寄せで島津領農民の年貢負担が増大した。これが秀吉最後の歓楽となった。 |
F |
a |
播磨国東部を領有した大名。早くから織田家に従っていたが、1578年に毛利家に内応して織田家に背き、三木城に籠城した。このため秀吉は東西から敵に挟まれ窮地に陥った。 |
F |
g |
1588年、秀吉は前年に完成した聚楽第に○○○天皇の行幸を受け、その権威を示した。 |
G |
b |
○○城主の山名豊国は中国地方の攻略を進める秀吉に降伏したが、講和に反対する重臣たちは豊国を追放して毛利家から吉川経家を城主として迎えた。これを受けて秀吉は1581年に○○城を兵糧攻めにした。 |
G |
d |
1585年、秀吉は○○○○○○を降伏させ、四国を平定した。 |
H |
e |
1588年、秀吉は○○鎮圧令を出した。これにより、中世における海上武力の行使者として政治的に独立した存在であった○○衆は、統一権力の下でその存在を許されなくなった。 |
I |
a |
実家を出て針を商いつつ流浪の生活を送っていた秀吉は、遠江久能城主○○○○○(之綱)に拾われて家臣となった。しかし同輩の妬みにあって出奔し、やがて織田信長に仕えた。 |
I |
f |
織田信長・豊臣秀吉が政権を掌握していた時代を、それぞれの居城から○○○○時代と呼ぶ。 |
ヨコ
a |
A |
1587年に秀吉が開催した大茶会。身分を問わず広く参加を呼びかけ、1000人以上が参会したとされる。10日間開催されるはずであったが、1日目を終えたのみで突如打ち切られた。 |
a |
F |
1592年・1597年の2度にわたり、秀吉が明の征服を目指して朝鮮半島に出兵した戦争を、当時の年号から○○・○○の役と呼ぶ。 |
b |
A |
1573年、秀吉は織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家にあやかり○○の苗字を名乗った。 |
b |
G |
○○○(宗易)は、堺の商人で、茶の湯の大成者。織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。豊臣政権内で大きな勢力を持ったが、1591年に秀吉から突如として切腹を命じられた。 |
c |
B |
1587年、秀吉は○○○○を降伏させ九州を平定した。 |
c |
H |
1583年、柴田勝家を滅ぼした秀吉は石山本願寺の跡地に○○城の築城を始めた。本丸などの工事がほぼ完了した後も、秀吉が死ぬまで断続的に工事が続けられたこの城は、豊臣氏の居城であるとともに、豊臣政権の政庁としての機能も果たしていた。 |
d |
A |
秀吉が全国的に行った土地調査を○○○○と呼ぶ。統一された度量衡により石高が算定され、荘園制における複雑な権利関係が整理された。 |
d |
G |
1582年、織田信長死後の清洲会議において、秀吉は明智光秀討伐の功績を背景として主導権を握り、柴田勝家の意見を押さえて○○○(信長の孫。後の織田秀信)を織田家の後継者とした。 |
e |
A |
紀伊国の○○寺は「○○衆」と呼ばれる鉄砲で武装した僧兵集団を抱える強大な寺院領主であったが、小牧・長久手の戦いで反秀吉勢力と結んで秀吉の本拠を脅かし、1585年に秀吉の征討を受けて全山が炎上した。 |
e |
C |
中世において広くみられた自力救済の慣行を否定し、大名間の領土紛争を豊臣政権の裁定により解決することを宣言した私戦禁止令を、○○○○・豊臣平和令などと呼ぶ。 |
f |
F |
織田信長死後の主導権をめぐって秀吉は織田家重臣の柴田勝家と争い、1583年に○○○の戦いでこれを破った。 |
g |
B |
1587年、九州平定を終えて博多に滞在中であった秀吉は○○○追放令を発令し、キリスト教宣教師に国外退去を命じた。 |
g |
E |
織田信長の死後、統一政権の確立を図る秀吉と対立した信長の次男・信雄は○○○○に支援を求めた。信雄と○○○○の連合軍は、1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉を破った。 |
h |
D |
1598年、秀吉は子の○○のことを有力大名に託して死去した。しかし1600年に関ヶ原の戦いで西軍が敗れると豊臣氏は実質的に65万7000石の一大名に転落し、1615年に大坂夏の陣で敗れた○○が自害し、豊臣氏は滅亡した。 |
h |
H |
織田○○は信長の三男。本能寺の変後、秀吉の軍に合流して明智光秀を討った。その後の清洲会議では柴田勝家により織田家の後継者に推されたが秀吉の反対により果たせず、以後勝家とともに秀吉に対抗した。勝家が秀吉に滅ぼされると自害した。 |
i |
A |
豊臣○○は秀吉の甥で、養子となり後継者として扱われていた。しかし1593年に秀吉側室の淀殿が子を産むと両者の関係は徐々に悪化し、1595年に秀吉から切腹を命じられた。30人以上の妻妾や子女はことごとく処刑され、多くの近臣も殺された。 |
i |
D |
1590年、秀吉は北条氏が籠城する○○○城を全国の諸大名を率いた大軍で包囲した。この対陣中に伊達政宗ら東北地方の大名も秀吉の下に参陣して臣従し、北条氏の降伏とそれに続く関東・東北の大名領の確定により秀吉の天下統一が完成した。 |
i |
H |
1573年、秀吉は織田信長から滅亡した浅井家の旧領12万石を与えられ、今浜の町を○○と改名して築城し、城主となった。 |