知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(24)北条早雲 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール
※図1- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント
※図2ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(24)北条早雲の解答
タテ
A |
a |
早雲は、1476年に駿河守護の○○○○が戦死したことにより生じた家督問題を調停した。 |
A |
f |
1504年、早雲は今川氏親とともに扇谷○○○○を支援して、立川原の戦いで上杉顕定を破った。 |
B |
d |
関東の出身ではない早雲の一族は、子の代になっても上杉朝興から「○○○○○」と呼ばれていた。北条への改姓には、こうした批判に対して、鎌倉幕府執権北条氏の姓を称することで関東支配の正当性を主張する意図があったと考えられる。 |
C |
d |
早雲は軍記物語の『○○○』を愛読していたとされる。 |
C |
g |
早雲は一時期京都の○○○で春浦宗煕に従い禅の修行を積んだ。 |
D |
a |
1491年、早雲は堀越公方足利政知死後の混乱に乗じて伊豆国に攻め入り、政知の遺児である足利○○○を打倒して伊豆を平定した。 |
D |
f |
扇谷上杉氏の家臣であった○○○○が早雲に寝返るなど、反上杉勢力が次々に兵を挙げると、危機に陥った扇谷・山内の両上杉氏は同盟を結んで早雲に抵抗した。 |
E |
e |
早雲が家督を譲った1518年から、有名な北条氏の「○○○○」が用いられ始めた。 |
F |
a |
「早雲寺殿○○○○」は、早雲が制定したとされる家訓である。 |
F |
f |
今川家の客将となった早雲は、富士下方十二郷を与えられるまでは○○城を居城としていたと推測される。 |
G |
e |
早雲は、入道してからは「早雲庵○○」と号した。 |
H |
c |
早雲ははじめ○○○○に仕え、1467年の伊勢下向に従ったとされる。 |
I |
a |
かつて早雲は一介の素浪人の出身であると考えられていたが、研究の進展により今日では室町幕府○○○○を務めた伊勢氏の一族であることが確実視されている。 |
I |
f |
古河公方○○○○は、扇谷・山内の両上杉氏と結んで早雲に対抗しようとし、これに反対する嫡子の高基と対立した。一度は和解したものの、早雲の策により再び対立し、敗れて古河城を失った。 |
ヨコ
a |
B |
1495年、早雲は○○○○から相模の小田原城を奪い、関東進出の第一歩とした。 |
a |
F |
今川家の部将としての早雲の活動は三河にまで及び、安祥城主の○○○○と争った。 |
b |
B |
扇谷上杉定正から派遣された○○○○は、早雲とともに中心となって今川家の家督問題を調停した。 |
b |
G |
今川家の家督問題に際して、早雲は○○○(後の今川氏親)を支持して内紛を収集した。 |
c |
A |
1487年、早雲は、内紛を収集して氏親に今川家の家督を継がせた功績により富士下方十二郷を与えられ○○○城の城主となった。 |
c |
E |
早雲は京都の医者・陳定治を小田原に招いて○○○(外郎、ういろう)という薬の製造・販売を行わせ、外郎は小田原名物となった。 |
d |
D |
かつては早雲の出自は一介の素浪人であったと信じられており、美濃の○○○○と並んで下剋上の典型と考えられていた。 |
e |
A |
1510年頃から相模への侵攻を開始した早雲は○○○○(義同)と激しく争い、12年に岡崎城、16年に新井城を攻め落としてこれを滅ぼし相模を平定した。 |
e |
F |
早雲の事績として、戦国大名ではじめて領内で○○を行ったことが特筆される。 |
e |
H |
早雲は、入道してからは「早雲庵○○」と号した。今川氏に嫁いでいた姉妹の○○殿の縁を頼って駿河に下向した。 |
f |
E |
伊豆を平定した早雲は○○に城を築いて居城とした。 |
g |
F |
早雲に始まる北条氏は、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するため○○○氏とも呼ばれる。 |
h |
F |
○○○○の職を継承した有力大名である上杉氏は、山内・扇谷両家の対立などにより衰退して北条氏の関東進出を許した。両家は後に和睦して北条氏に対抗したが、敗れて関東を追われた。 |
i |
A |
1518年に、早雲は子の○○に家督を譲ったとみられる。 |
i |
C |
早雲は、今川氏親が成人するまで○○○○が家督を代行するとの条件で今川家の家督問題を調停した。しかし○○○○はこの条件を守らず、11年後に早雲らによって討たれた。 |
i |
G |
早雲は通称を○○○といい、諱は長氏・氏茂などと伝わる。 |
ヒント
解答
(23)真田昌幸の解答
タテ
A |
b |
1582年6月に本能寺の変が起こると、昌幸は7月に○○○○に従属し、9月には徳川家康へと従属先を変えた。 |
A |
f |
昌幸の長男・信之の夫人は徳川家康の重臣である○○○○の娘であり、関ヶ原の戦いでは信之は東軍に属した。 |
B |
a |
1600年の関ヶ原の戦いに際して昌幸は西軍に属し、西上する○○○○の3万8000の大軍を籠城戦で足止めして、関ヶ原での本戦に遅参せしめた。 |
C |
f |
1585年、徳川家康は、かねて北条氏との和睦条件として取り決めてあった沼田領の北条氏側への引き渡しを昌幸に要求した。当時昌幸は徳川氏に従属していたがこれを拒否し、○○○○へと従属先を変えた。 |
D |
b |
真田氏は、信濃国の名族○○氏の流れを汲む海野氏の一族であるとされるが、その出自に関しては不明な点が多い。 |
D |
e |
昌幸の幼名。 |
E |
f |
武田信玄が北条軍を破った○○○の戦いで、昌幸は検使(将士の行動を監察する役目)を務めるとともに一番槍の武功を挙げた。 |
F |
a |
天下統一を進める豊臣秀吉からの再三の上洛命令を北条氏直が先延ばしにするなか、秀吉の裁定により昌幸の領有が認められた名胡桃城を北条方の部将○○○○が奪うという事件が起き、これに激怒した秀吉は諸国の大名に北条氏征討の命令を発した。 |
G |
b |
1600年、上杉家を攻めるため会津に向かう徳川家康に従い下野国○○まで軍を進めた昌幸の元に、西軍挙兵の報が届いた。昌幸は、長男・信之が東軍として家康の下に残り、自身と次男・信繁が西軍に味方することを決め、自領へと引き返した。 |
G |
d |
昌幸の夫人である山之手殿の出自に関しては、公家・菊亭晴季の娘、宇田頼忠の娘(○○○○の夫人と姉妹)などの説がある。 |
G |
h |
1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属することを決めた昌幸が、東軍に属した長男・信之と別れて居城に戻る途中に信之の沼田城に立ち寄ろうとした際、留守を守っていた信之の正室の○○殿(おねい・稲姫)は昌幸の入城を拒んだとされる。 |
H |
a |
昌幸の次男・信繁は一般には○○の名で知られるが、良質の史料にこの名は見られない。 |
H |
f |
○○○○は昌幸の叔父に当たる真田家の部将で、1580年に昌幸が沼田城を攻略した際には攻撃の総大将を務め、戦後に沼田城代に任じられた。 |
I |
b |
1582年に織田軍が武田領に攻め入り、武田家の一門や重臣までもが次々に離反するなかで、昌幸は武田勝頼を自身の城に迎え入れようとしたが、途中で勝頼の気が変わって○○○○○の城に向かい、その裏切りに遭って滅んだとされる。 |
I |
g |
関ヶ原の戦い後に紀伊国に配流された昌幸は、○○○を作って家臣に行商させ、生活の足しにするとともに諸国の情勢を探らせたとされる。 |
ヨコ
a |
A |
人質として武田家に送られた昌幸は信玄の厚遇を受け、甲斐の名族の苗字を与えられて○○○○○と名乗った。 |
a |
G |
『甲陽軍鑑』によれば昌幸の初陣は1561年の第四次○○○の戦いであったという。 |
b |
C |
関ヶ原の戦いで西軍に属して紀伊国に配流された後、昌幸は赦免されることを願って徳川家康の側近の○○○○にしきりに取りなしを依頼したが、赦されないまま1611年に死去した。 |
c |
C |
1575年、信綱・昌輝という2人の兄が○○の戦いで討ち死にしたため、昌幸は真田姓に復して家督を継いだ。 |
c |
E |
昌幸の次男・信繁の夫人は○○○○の娘であり、関ヶ原の戦いでは信繁は昌幸とともに西軍に属した。 |
d |
C |
武田氏滅亡後、家を保つために目まぐるしく従属先を変える昌幸を、豊臣秀吉は「○○○○の者」と評した。 |
d |
H |
1581年、武田勝頼は甲斐国の防衛体制強化のため、昌幸を普請奉行に任じて○○城を築いた。 |
e |
A |
関ヶ原の戦いで西軍に属した昌幸と次男の信繁は、戦後に長男の信之の嘆願により命を助けられ、紀伊国高野山麓の○○○に幽居した。 |
e |
E |
1582年3月に武田家が滅亡すると昌幸は○○○○に服属して本領を安堵されたが、6月にはその○○○○も本能寺の変で死亡し、以後昌幸は目まぐるしく従属先を変えることとなった。 |
f |
A |
剣豪の○○○○○(小野忠明)は1600年の第二次上田合戦に徳川方として参加しており、徳川軍が大崩れになるなかで踏みとどまって戦い、上田七本槍の一人に数えられた。 |
f |
F |
武田信玄に仕えた昌幸は、曽根昌世(内匠助)とともに信玄から「わが○○のごとし」と評された。 |
g |
B |
真田氏は昌幸の父○○の代に武田信玄に仕え、服属の証の人質として昌幸は甲府に送られた。 |
g |
F |
1585年、徳川家から離反した昌幸に対して家康は兵を送ったが反撃に遭って総崩れとなり、重臣の○○○○が徳川家を出奔して豊臣秀吉に仕えるという大事件もあり、結局城を落とせず引き上げた。寡兵で徳川家の大軍を退けた昌幸の武名は大いに高まった。 |
h |
B |
幼い頃に服属の証の人質として武田信玄のもとに送られた昌幸は、○○○と呼ばれる小姓に取り立てられた。 |
h |
E |
1583年、昌幸は○○城の築城を開始した。この城は昌幸が2度にわたり徳川家の大軍を退けた戦いの舞台として有名である。 |
i |
B |
豊臣秀吉による北条氏攻めでは、昌幸は東山道を進む支隊に属し、北条氏重臣の○○○○○が守る松井田城などの諸城を攻略した。 |
i |
G |
昌幸の母は海野氏の重臣である○○氏の女子である。 |




