知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(28)明智光秀 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール
※図1- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント
※図2ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(28)明智光秀の解答
タテ
A |
b |
1575年、光秀は九州の名族である○○の姓と日向守の官職を与えられ、以後○○日向守と名乗った。 |
A |
d |
本能寺の変の際、織田信長の嫡男の信忠は妙覚寺に宿泊していた。光秀の謀叛を知ると本能寺に入ろうとしたが果たせず、皇太子誠仁親王を禁裏に移して○○○○に立て籠もり、防戦の末に自害した。 |
B |
a |
1582年6月2日に織田信長を討った光秀が、同月13日には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて滅んだという故事から、きわめて短い間しか地位や権力を保てないことを意味する「○○○○」という言葉が生まれた。 |
b |
g |
山崎の戦いの際、筒井順慶が○○○で形勢を窺ったという話が一般に流布し、日和見的態度を意味する「○○○」という言葉の元となったが、実際には○○○に陣を置いたのは光秀の方であり、ここで順慶の来援を待ったが順慶は静観の構えを崩さなかった。 |
C |
e |
本能寺の変の直前、光秀は愛宕山に参詣し、○○の第一人者として知られた里村紹巴らを交えて○○の会を催した。ここで光秀が詠んだ「ときは今 あめが下知る 五月かな」の発句が有名である。 |
D |
c |
1571年に延暦寺を焼き討ちした織田信長は、光秀に近江国滋賀郡の支配を命じた。光秀は○○の地に築城を開始し、72年にはほぼ完成した。フロイスの『日本史』によれば、当時○○城は安土城に次ぐ天下第二の名城と評されたという。 |
E |
a |
1568年に○○○○が織田信長を頼った際に光秀はその仲介をしたとされる。以後しばらく、光秀は○○○○に仕える幕臣であると同時に信長の家臣でもあるという特殊な立場にあった。 |
E |
f |
光秀の次女の玉子はキリスト教の洗礼を受け、○○○○という洗礼名を贈られた。細川忠興の夫人であり、一般には細川○○○○の名で知られる。 |
F |
d |
1580年、織田信長は重臣である○○○○○と子の信栄に対して突如譴責状を発し、織田家から追放した。信長はその譴責状で、○○○○○の怠慢と対比する形で、光秀の丹波平定の功績を第一に挙げて賞賛した。 |
G |
f |
1577年、光秀は織田信長に背いた○○○○が籠もる信貴山城の攻撃に参加し、これを滅ぼした。 |
H |
a |
明智○○は光秀の家臣で、光秀の娘婿となり明智姓を名乗った。山崎の戦いの敗報を受け、光秀の妻子を殺して自害するため、敵軍に封鎖された陸路を避けて騎馬で琵琶湖を渡ったという「左馬助湖水渡り」の伝説で知られる。 |
H |
f |
羽柴秀吉は本能寺の変の報を受けて中国路を引き返す間に、畿内の諸将が光秀に味方するのを阻止するため摂津茨木城主○○○○らに「織田信長・信忠父子は無事近江に逃れた」との偽情報を流すなどの工作を行った。 |
I |
a |
1578年、有岡城主○○○○が織田信長に背くと、光秀の娘が○○○○の嫡子村次に嫁いでいた縁もあって光秀が説得のため派遣された。 |
I |
f |
本能寺の変に際して、織田信忠は嫡男の○○○(信長の嫡孫。後の織田秀信)を家臣の前田玄以に託した。玄以は○○○を連れて京都を脱出し、尾張に逃れた。 |
ヨコ
a |
A |
織田信長に仕える前の光秀の経歴に関しては不明な点が多いが、『細川家記』などによれば越前の○○○○に仕えた後に信長に転仕したという。 |
a |
F |
1582年6月13日、本能寺の変後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて勝龍寺城に入った光秀は、暗夜に乗じて城を抜け出し落ち延びようとしたが、○○○まで来たところで落ち武者狩りの襲撃に遭って深手を負い、その場で自害したとされる。 |
b |
C |
1575年に光秀は丹波攻略を開始したが、それまで光秀に従っていた八上城主○○○○○が突如背いたため敗走し、丹波攻略は長期戦を余儀なくされた。79年に八上城は落城し、降伏した○○○○○とその兄弟は織田信長のもとに送られ、磔にされた。 |
c |
A |
1573年に○○○○が京都所司代に任じられると、光秀はその補佐として京都の行政を担った。 |
c |
F |
1582年5月、光秀は織田信長のもとを訪れた○○○○の饗応役を務めたが、羽柴秀吉から毛利の大軍が出陣したとの報が入ったため饗応役を解かれ、秀吉への加勢を命じられた。 |
d |
B |
光秀は丹波攻略の拠点とするため1577年頃丹波○○城を築城し、平定後の80年に丹波一国を拝領した。 |
d |
F |
1582年6月12日に羽柴軍に○○○を占拠され、翌13日の戦闘で光秀は敗北した(山崎の戦い)。 |
e |
B |
○○○○(苗字は長岡とも)は光秀の与力であり、姻戚関係もあったが、本能寺の変後すぐに剃髪して幽斎と号し、光秀への協力を断った。○○○○や筒井順慶など親密な関係にあった武将の協力を得られなかったことは光秀にとって大きな誤算であった。 |
e |
F |
豊臣秀吉は御伽衆の○○○○に命じて、光秀の討伐を題材とした「明智討」などの、自身の事績を喧伝するための新作能を作らせた。 |
f |
A |
光秀の重臣である斎藤利三の妹が○○○○元親の妻である縁から光秀は織田家と○○○○家の取次を務めた。信長の○○○○家に対する政策への不満に、本能寺の変の一因を求める説が存在する。 |
g |
C |
光秀は通称を○○○という。 |
g |
H |
織田信長の三男の○○は四国攻略の総大将に任じられたが、堺から出航する直前に本能寺の変の報がもたらされると軍は混乱して兵の大半が逃亡してしまったため単独で光秀と戦うことができず、羽柴秀吉の軍と合流して山崎の戦いで光秀を破った。 |
h |
A |
織田信長の弟・信行の子。本能寺の変の際は四国攻略に備えて大坂城にいたが、光秀の娘婿であったために共謀を疑われて殺害された。 |
i |
A |
○○○○(荻野悪右衛門)は丹波の豪族で、幼少の当主に代わって一族を率いた。1570年に織田信長に従ったが後に背き、光秀の丹波平定に抵抗した。78年に○○○○が黒井城で没すると、その翌年に光秀は黒井城を攻略し、これにより丹波平定は概ね完了した。 |
i |
F |
光秀の出自に関しては、土岐氏の支流で○○国明智城の城主の子ともいわれるが定かではない。しかし、○○国の出身であることは確かであると考えられる。 |
i |
H |
1582年6月2日に織田信長を討った光秀は、5日に○○城を占領し、信長の財宝を家臣たちに分け与えた。 |
ヒント
解答
(27)三好長慶の解答
タテ
A |
a |
父の元長が主君の策略により敗死すると、長慶は阿波の○○○○のもとに身を寄せた。 |
A |
f |
1560年、長慶は高屋城などを攻め落とし○○○○を追放して河内を版図に加えた。 |
B |
b |
長慶は1560年に○○○城を居城とし、64年にこの城で死去した。 |
B |
f |
三好一族の○○は、長慶の父である元長と対立し、讒言により死に追いやった。後に長慶とも対立し、1549年に江口の戦いで長慶に敗れて討死した。 |
C |
a |
1540年、長慶は○○○○○の娘を正室とした。 |
E |
a |
越前の武将である○○○○(教景)は、手本とすべき人物として今川義元・武田信玄・上杉謙信・毛利元就・織田信長とともに長慶の名を挙げ、その才を評価している。 |
E |
h |
1553年、長慶は越水城から○○城に本城を移した。 |
F |
f |
1548年、長慶は主君であり父の仇でもある○○○○に叛旗を翻し、翌年江口の戦いで勝利して京都に入り三好政権を樹立した。 |
G |
b |
大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派の寺院。長慶が父・元長の菩提所とするために創建した寺であり、長慶の墓がある。 |
G |
e |
室町幕府最後の管領。長慶に擁立されて管領となったが、実権は完全に長慶に掌握されていた。 |
H |
a |
三好氏は、清和源氏の一流である阿波○○○氏を出自とする。 |
H |
d |
三好○○は長慶の弟である十河一存の子であり、長慶の嫡子が病死すると三好家の後継者とされ、長慶の死後に跡を継いだ。 |
H |
f |
長慶の通称。 |
I |
a |
1547年に長慶は舎利寺の戦いで○○○○らを破り、翌年に和睦してその娘と再婚した。 |
I |
f |
室町幕府十三代将軍。長慶によりしばしば京都を追われたが、1558年に長慶と和睦した。しかし、三好氏の傀儡となるのを拒み、諸国の大名と修交して政治的手腕を発揮したため、長慶死後に三好氏の襲撃を受けて殺害された。 |
ヨコ
a |
B |
1563年に嫡子の○○が病死すると長慶は大きく落胆して呆然と過ごす日が多くなり、自身もその翌年に病死した。 |
a |
D |
長慶の父の三好元長は、1532年に主君の策略により○○○○に攻められ自害した。 |
b |
D |
1560年、長慶は幕府の○○○(御○○○)に任じられた。 |
c |
B |
長慶の幼名。 |
c |
F |
○○○○は長慶の父・元長と対立し、策謀により自害に追い込んだ。後に長慶の帰参を仲介したがやがて対立するに至り、1542年に太平寺の戦いで長慶らに敗れて死亡した。 |
d |
A |
長慶の時代に三好氏の領土は十数ヶ国にまたがる広大なものとなり、畿内は長慶によって、三好氏の本国である四国は弟の○○(義賢)によって統治された。 |
d |
D |
1562年、長慶の弟の義賢が○○○の戦いで討死し、三好政権は大きな痛手を受けた。 |
e |
A |
1561年、○○○○(承禎)らが挙兵し、三好氏は一時京都を奪われた。 |
e |
E |
長慶の死後に三好政権を支えた三人の重臣(三好長逸・三好政康・石成友通)を○○○○○と呼ぶ。 |
f |
B |
1551年、政所執事○○○○の屋敷に招かれていた長慶が斬りかかられ負傷するという暗殺未遂事件が起こった。 |
g |
C |
人望の厚かった弟の○○○○を殺害するなど、晩年の長慶は精神に異常を来していたとされる。 |
g |
G |
長慶は当時の武将のなかでも一級の文化人であり、特に○○に熱心であった。 |
h |
A |
室町幕府十二代将軍。生涯に何度も京都から落ち延びており、1549年に長慶により京都を追われると、再び京都に入ることができないまま翌年病死した。 |
i |
B |
長慶の家臣。はじめ右筆として長慶に仕え、次いで部将として多くの武功を挙げ大和一国を与えられ、その後も三好政権内での地位を高めた。長慶の死後は、他の重臣たちと政権を二分した。 |
i |
F |
○○○○は四国の三好氏に仕えた有力な家臣であり、長慶死後の三好政権を支えてフロイスの『日本史』では三好長逸・三好政康・石成友通とともに「天下の四人の執政」と称された。 |




