クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (41)足利義昭

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ41
足利義昭
- クイズで足利義昭を確認しよう!
タテ
A a 義昭は僧侶時代には○○という法号を名乗っていた。
A d 1572年に信長が義昭に対し、朝廷への奉公が足りないこと、信長の副状なく○○○を発給したことなどを非難した十七ヵ条の異見書を提出したことにより両者の関係は決定的に悪化した。
A g 信長の力で上洛を果たした義昭は信長に対して幕府の管領か○○○への就任を要請したが、信長はこれを辞退した。
B b 信長に降伏した義昭は顕如の仲介により○○○○の居城である河内国の若江城に移った。
C d 政治的な動きを始めた義昭に対して、信長は1569年に「○○の掟」を定めてこれを規制した。
D c ○○○○ははじめ義昭に仕え、義昭が信長に擁立された際にその工作を務めた。以後義昭・信長の両者に仕えたが、次第に信長の家臣としての性格を強め、義昭が追放された後も信長に従った。
E a 1566年に義昭は越前国に居を移し、信長に擁立されるまでの2年近くを越前の戦国大名である○○○○の庇護を受けて過ごした。
E g 1568年、義昭は○○○城で元服した。
F f 有力な大名に擁立されて上洛し、将軍に就任することを目指す義昭は各地の大名に書状を送って働きかけたが、なかでも○○○○に宛てたものが圧倒的に多く、最も頼りにしていたことが窺える。
G b 義昭は三好氏によって殺害された兄に代わって将軍への就任を目指したが、三好氏に擁立された足利○○が義昭よりも先に十四代将軍に就任した。
G e 1587年、義昭は秀吉に恭順の意を示して帰京を許され、1万石を与えられて山城国○○で余生を送った。
H b 1568年、義昭は信長に擁されて上洛を果たし、念願であった○○○○○(将軍)に就任した。
H g 1573年、義昭は信長に対して挙兵したが敗れ、2歳の長男(後の興福寺大乗院門跡○○)を人質に出して降伏した。
I a 1568年、義昭を擁した信長は大軍を率いて岐阜を出発し、南近江の○○○○(承禎)を破って上洛を果たした。
I e 義昭は6歳で興福寺○○○門跡に入室し、僧として育った。
ヨコ
a A 三好氏による幽閉状態から脱出した義昭は、幕臣である○○○○の館に入った。
a F 1588年、義昭は出家して○○○○と号した。
b C 義昭は室町幕府十二代将軍の足利義晴と○○○○の娘の間に1537年に生まれた。
c A 文禄の役の際には、義昭も秀吉が朝鮮出兵の前線基地とした肥前○○○に従軍した。
c F 1576年、義昭は○○氏を頼って備後の鞆に移った。
d F 1569年、信長が京都を離れた隙に三好氏の軍勢が京都に入り、義昭が仮御所としていた○○○を襲撃するという事件が起きた(○○○の変)。
e C 1565年に義昭の兄である十三代将軍足利○○が三好氏の軍勢に御所を襲撃されて殺害されるという事件が起き、義昭も三好氏により幽閉された。
e E ○○○門主の顕如と信長が対立した際、義昭ははじめ両者を調停しようとしたが、この調停が成立する前に信長が義昭に異見書を提出したことにより義昭自身と信長の関係が急激に悪化した。
f A 信長に降伏した義昭は、山城国枇杷荘に向かう際に落ち武者狩りに遭い身ぐるみをはがされた上に、○○○○と罵られるようなありさまであった。
f E 義昭は還俗した当初は○○と名乗っていたが、元服した際に義昭と改名した。
g A 三好長慶の死後に三好政権を支えた3人の重臣を○○○○○と呼ぶ。義昭を擁した信長に敗れ、その後も義昭の仮御所を襲撃するなど抵抗を続けたが次第に勢力は衰えた。
g F ○○○○は信長に抜擢されて摂津一国の支配を任されたが、後に義昭らの説得により信長に背いた。
h B ○○○○(幽斎)は、三好氏に幽閉されていた義昭を救出し、その上洛を実現するために尽力した。義昭が信長に追放された後は信長の家臣となった。一説に足利義晴の落胤とされ、仮に事実とすれば義昭の兄に当たる。
h G 1573年11月、義昭は堺から紀伊国由良の臨済宗寺院である○○○に移り、2年余りをここで過ごした。
i A 義昭は反信長勢力を糾合して包囲網を形成したが、軍事的な中心であった○○○○は西上を開始して信長の同盟者・徳川家康を破ったものの、病状が悪化して帰国する途中で死去した。
i F 信長に仕えた筆頭格の吏僚である○○○○と島田秀満は義昭を招聘する際の迎えの使者を務め、信長が義昭のために二条御所を建設した際の工事奉行にも任じられた。
  • ヒント
※画像をクリックで拡大します。
クイズ40
森鴎外
- クイズで森鴎外を確認しよう!
タテ
A a 鴎外は医務局長時代に全軍に○○○○の予防接種を行い実効をあげた。
A f 鴎外は明治天皇に殉死した○○○○の心情を肯定的にとらえ、『興津弥五右衛門の遺書』を著した。
B a 鴎外は満19歳で○○大学医学部を卒業して軍医となった。現在同大学には、鴎外の蔵書の大部分が「鴎外文庫」として収蔵されている。
B e 明治から昭和時代の小説家。鴎外の推薦で慶應義塾大学文科教授に就任した。1910年に創刊・主宰した『三田文学』は、鴎外の作品発表の舞台となった。
C b 1919年、鴎外は現在の日本美術院の前身にあたる○○○○○の初代院長に就任した。
C g 1922年7月9日、鴎外は萎縮腎と○○○の症状で死去した。
D b 鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』では殉死を肯定的に描いたが、『○○○○』では一転して批判的に描いた。
D g ○○戦争に際して鴎外は第二軍の軍医部長として出征した。
E a プロイセンの軍人・軍事理論家○○○○○○○の著書『戦争論』は近代戦理論の古典的名著とされる。日本においては鴎外が最初にこれを翻訳した。
F b 鴎外が1922年に没するまで住んだ○○○と呼ばれる住宅の跡地には、1962年に鴎外記念本郷図書館が開設された。図書館はその後、2006年に鴎外記念室と分離して本郷図書館として現在地に移転した。
F e 1917年末、鴎外は宮内省○○○○○総長兼図書頭に就任した。
G a 小説家・随筆家の森○○は鴎外の長女。鴎外の思い出をつづった『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
G d 1891年から翌年にかけて、理想(イデアリスム)を重んじる鴎外と記実(リアリズム)を重んじる坪内逍遙との間に「○○○論争」が起こった。
G g 鴎外は幼い頃から藩校の○○○で漢学や国学などを学び、その秀才をうたわれた。
H a 弟の自殺を手助けして遠島に処せられる男を描き、安楽死の問題を提起した鴎外の小説。
H d 破傷風菌の純粋培養やペスト菌の発見などで知られる明治・大正時代の細菌学者。鴎外と同時期にドイツに留学し、鴎外と同じ教授に師事して学んだ。
I b 鴎外は「○○○○と歴史離れ」という文章で、歴史小説の創作理論を説いた。
I f 鴎外は1884年から88年までのドイツ留学中に、「細菌学の祖」と称されるベルリン大学の○○○教授などの下で学んだ。
ヨコ
a B 1907年、鴎外は陸軍中将に相当する陸軍軍医の最高階級である陸軍○○○○に昇進し、医務局長の職に就いた。
a F 1893・94年の「○○○○」論争において、鴎外は医学界の中枢と対峙した。
b A 童話作家として有名なアンデルセンの長編小説を鴎外が翻訳した『○○○○』は、「アンデルセンの原作を超える」と評された。
c B 鴎外の本名は○○○である。
c F ドイツに留学した官僚太田豊太郎と踊り子エリスとの悲恋を描いた鴎外の小説。鴎外の自伝的側面が強い作品であり、エリーゼというドイツ人女性が鴎外の帰国を追って来日している。
d B 鴎外の出身地は現在の○○県にあたる石見国の鹿足郡である。
d H 大正・昭和時代の解剖学者森○○は鴎外の長男である。
e A 1889年3月、鴎外は赤松則良海軍中将(男爵)の長女○○○と結婚したが、約1年半で離別した。
e G 1899年、鴎外は第十二師団軍医部長として○○に左遷された。
f D 鴎外は晩年、歴代天皇の諡号の由来を考証し、『○○○』という書物にまとめた。
g A 1909年1月に鴎外を中心として創刊され、13年12月に廃刊となった文芸雑誌。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』などの作品の発表の場となった。
h C 森家は代々○○○藩の典医を務めた家柄であった。
h H 1872年、10歳で父とともに上京した鴎外は、郷里の先輩で親戚でもある啓蒙思想家○○の家に寄寓し、本郷の進文学舎に通った。
i B ドイツ留学から帰国した鴎外は、長州閥の総帥として軍・政・官界に絶大な勢力を持っていた○○○○と接触して信任を得た。
i F 1902年、鴎外は○○○○と再婚した。

※「鴎」の字は正確な表記ではありません。正字が環境依存文字であるため略字を使用しています。

  • ヒント
  • 解答
※画像をクリックで拡大します。

あなたの「歴史」を発信する

無料見積り・お問合せ

歴史の森

〒151-0073
東京都渋谷区笹塚
1丁目56-6
クレセントプラザ笹塚50D号

[営業時間]
9:00~17:00
[定休日]
土・日・祝・年末年始
■ペーパーズ・依頼出版ほか・古記録解読
TEL:050-3670-8253
■クライアント関連
TEL:03-6304-2471

※古記録資料の解読についてお問合せの際は、こちらをご一読ください。

弊社へのアクセス方法

在宅スタッフ募集