知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(20)島津義弘 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール
※図1- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント
※図2ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(20)島津義弘の解答
タテ
A |
a |
関ヶ原の戦いの際、義弘は徳川家康から伏見城の留守を頼まれていたが、城を守備する徳川家家臣の○○○○に入城を拒まれたため、わずかな兵で西軍の勢力圏に取り残される形となり、やむを得ず西軍に属することとなった。 |
A |
f |
1607年に義弘は○○○の地に移り住み、1619年に死去するまでの12年間をここで過ごした。 |
B |
d |
肥後国内で勢力を拡大していた相良義陽に対し、島津氏は1579年に侵攻を開始し、1581年には11万5000人とされる大軍で○○城を完全に包囲して降伏させた。 |
B |
f |
島津氏は惟宗氏を本姓とし、惟宗忠久が○○○により島津荘の荘官に任じられたことに始まる氏族だが、忠久を○○○の御落胤とする伝承が存在する。 |
C |
d |
慶長の役の際に義弘が朝鮮から陶工を連れ帰ったことが、○○○と呼ばれる鹿児島県で作られる陶磁器の発祥となった。 |
C |
h |
1599年、義弘は剃髪して○○と号した。 |
D |
a |
1572年、義弘は○○○の戦いにおいて、約3000人とされる日向の大名伊東氏の軍をわずか300人の軍で破った。 |
D |
d |
1598年、豊臣秀吉の死により日本軍は朝鮮からの撤退を開始した。この際順天にいた○○○○の退路が断たれたため、義弘は露梁海戦で明・朝鮮軍と戦い、その撤退を成功させた。 |
D |
h |
義弘は1535年に島津○○の次男として生まれた。 |
E |
a |
義弘の子で薩摩藩初代藩主となった島津家久は、同名の叔父(義弘の弟)である家久と区別するために初名である○○の名で呼ばれることが多い。 |
E |
e |
1587年、降伏した島津氏に対し、豊臣秀吉は当主の義久に薩摩一国を安堵し、義弘に○○一国、義弘の子の久保に日向国諸県郡を与えた。また、義弘の弟の家久は日向国佐土原を安堵され独立した大名として取り立てられたが、その直後に死去した。 |
F |
c |
1587年4月17日、島津氏は当主の義久自らが軍を率い、義弘らも参加して○○○で豊臣軍との決戦に臨んだが敗れ、戦意を失った義久は降伏を受け入れた。 |
G |
c |
朝鮮の武将。豊臣秀吉の命により朝鮮出兵が始まると、水軍を率いて日本軍と戦った。義弘の軍との間に起きた露梁海戦で戦死し、救国の英雄として忠武公と諡された。 |
G |
h |
1600年、関ヶ原の戦いで敗れて帰国した義弘は○○に蟄居した。 |
H |
d |
戦国時代の島津氏は一族内での争いが続いていたが、島津氏中興の祖と呼ばれ義弘の祖父に当たる、伊作家出身の○○(日新斎)が勢力を拡大して子に島津宗家を継承させた。 |
H |
h |
○○氏は大隅半島に大きな勢力を持った一族で島津氏の大隅進出の障害となったが、1574年に兼亮が島津氏に降り、以後家臣として仕えた。 |
I |
a |
徳川家康の重臣。関ヶ原の戦いにおいて、敵中を突破して退却を図る義弘の軍を追撃し大きな被害を与えたが、自身も右腕に銃弾を受けて落馬し、この時の怪我がもとで右腕が不自由になり、翌々年に死去した。 |
I |
g |
島津氏は義久の代に弟の義弘・○○・家久に支えられて九州の大部分を制圧するまでに勢力を広げたが、豊臣秀吉の侵攻を受けて降伏した。 |
ヨコ
a |
A |
義弘は○○○に師事して茶道を嗜んだ。 |
a |
E |
関ヶ原の戦いに敗れた義弘と○○○○が領国に落ち延びる際、義弘の軍はわずか数十騎にまで減っており、島津氏との戦いで死んだ○○○○の実父・高橋紹運の敵を討つ好機であると勧める家臣がいたが、○○○○はこれを叱りつけ、義弘と協力して領国に下ったとされる。 |
b |
A |
義弘は初名を忠平といい、1586年に○○○○の偏諱を受けて義珍(よしまさ)、翌年義弘と改名した。 |
b |
F |
豊後の大名○○○○(義鎮)は、最盛期には九州の6ヶ国に及ぶ大版図を築いたが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗したのを機に急速に衰退した。 |
c |
B |
豊臣秀吉の家臣。秀吉による島津氏攻略の際、軍監として豊臣軍の先遣隊を率いたが、戸次川の戦いで無謀な作戦により長宗我部信親らが討ち死にする大敗を喫してしまい改易された。 |
c |
G |
筑前の大名・秋月種実は島津氏と結んで島津氏の筑前攻略を先導した。豊臣秀吉の九州攻めに際しても当初島津氏に属して降伏するのが遅れたが、初花肩衝・新田肩衝とともに天下の三大名物茶入と称された○○肩衝などを献上して赦された。 |
d |
E |
義弘は1554年の○○城の戦いにおいて初陣を飾り、以後3年間○○城に在番した。 |
e |
A |
1592年に島津氏家臣の○○○○が豊臣政権に対して起こした反乱は○○○○が謀殺されたことにより速やかに鎮圧され、島津領内における豊臣権力の確立が進んだ。 |
e |
H |
慶長の役において義弘は明の圧倒的な大軍を○○新城で迎え撃ち、3万8717人を討ち取りほかにも多数の敵兵を斬り捨てる(数字は義弘自身の報告による)という勝利を収めた(○○の戦い)。 |
f |
E |
関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、島津軍は義弘の甥の豊久や家老の○○○○○が義弘を逃がすために身代わりとなって討ち死にするなど壮絶な退却戦を敢行し、敵中を突破して義弘を無事帰国させた。 |
g |
A |
島津氏の宿老。豊臣政権との折衝を通して政権中枢にあった石田三成らと親しく交わり、太閤検地後に8万石の領地を与えられるなど権勢を誇った。1599年、伏見において義弘の子である島津家久により、謀叛を企てたとの理由で殺害された。 |
g |
F |
島津義久の家老を務めた○○○○の日記は、当時の上級武士の生活や島津氏の領国支配・版図拡大の様子が窺える貴重な史料である。 |
h |
D |
義弘の母は○○○重聡の娘である。 |
i |
A |
義弘の幼名。 |
i |
E |
関ヶ原の戦いで西軍の主力の一人として戦った○○○○○は、敗戦後に義弘を頼って薩摩に落ち延び、3年間島津家のもとで匿われた。その後徳川家に身柄を引き渡され、1606年に八丈島に流罪となった。 |
ヒント
解答
(19)大友宗麟の解答
タテ
A |
a |
中国地方の大名○○○○(晴英)は宗麟の弟であり、傀儡の当主として擁立された。 |
A |
f |
宗麟の幼名。 |
B |
b |
1569年、九州への進出を図る毛利氏と大友氏の間に起こった合戦を○○○○の戦いと呼ぶ。両軍ともに多くの戦死者を出し、尼子勝久の毛利氏に対する反攻もあって、以後毛利氏は大友氏との和を求めるようになった。 |
B |
f |
中国地方の戦国大名・大内義隆が家臣の○○○の謀叛により滅ぼされた際に、宗麟は密約を結んで弟の晴英に大内氏の家督を継がせた。 |
C |
b |
1576年、宗麟は全国の八幡宮の総本社であり朝廷の尊崇も篤い○○八幡宮の上宮を焼き討ちした。 |
C |
e |
1578年、宗麟は島津方の高城を攻めたが敗れ、敗走中に○○で壊滅して膨大な戦死者を出した。これを○○の戦いと呼ぶ。 |
C |
h |
「宗麟」は法号であり、宗麟の諱は○○である。 |
D |
c |
○○○○は宗麟に滅ぼされた文種の子で、毛利氏を頼り旧領に復帰した。毛利氏や島津氏などと結び大友氏と争った。 |
E |
d |
16世紀半ばから17世紀にかけて、ポルトガルやスペインの貿易船と日本との間で行われた貿易を○○○○と呼ぶ。宗麟の時代に大友氏はこの貿易により繁栄した。 |
E |
h |
江戸時代に、○○の苗字を名乗り肥後細川家の家臣となっていた宗麟の子孫が大友姓を継承して、大友氏は高家として再興された。 |
F |
a |
肥前の戦国大名。大友氏が島津氏との戦いに大敗して勢力失墜すると大友領に侵攻して大勢力を築いたが、沖田畷の戦いで島津・有馬の連合軍に大敗して討ち取られた。 |
F |
f |
1578年、宗麟はキリスト教を嫌っていた妻と離婚し、その侍女を新しい妻に迎えて受洗させ、○○○○という洗礼名を名乗らせた。 |
G |
a |
○○○○(親賢)は、宗麟の妻の兄で、宗麟の側近。1578年の日向遠征の総指揮をとったが島津軍に大敗し、敗戦責任を追及されて所領の大半を失った。 |
G |
e |
日本にキリスト教を伝えた○○○○を府内に招いて面会した宗麟はその教義に感銘を受け、領内での布教を許可して府内に教会を建設した。 |
H |
c |
○○○○(戸次鑑連)は宗麟の家臣で、病弱な宗麟に代わって前線で指揮をとることが多かった。娘の誾千代に家督を譲ったことでも知られる。 |
H |
g |
1576年に南蛮国から大友氏に献じられたものが日本における最初の大砲とされる。大友氏の大砲は「○○」の名で知られ、1586年には宗麟が○○を用いて島津軍を撃退している。 |
I |
b |
日向国の大名。三位入道と号した。島津氏に領地を奪われ、宗麟を頼って落ち延びた。 |
I |
f |
1579年に来日したバリニャーノは、豊後府内に○○○○と呼ばれる教育機関を設立した。 |
ヨコ
a |
A |
リスボン出身のポルトガル人。貿易商として来日し、イエズス会に入会した。宗麟の庇護を受け、育児院・病院などを開設した。 |
a |
G |
宗麟は、1587年に豊後国○○○(現、大分県○○○市)で死去した。 |
b |
C |
1560年、宗麟は将軍・足利義輝から、室町幕府が九州統治のために設置した職である○○○○に叙任された。 |
b |
H |
宗麟は1578年に受洗してドン・フランシスコという洗礼名を受け、「不乱師子虎」「○○」などと署名し、また、「FRCO」を組み合わせた印章を用いた。 |
c |
E |
宗麟はポルトガル人司祭の○○○○により受洗を受け、洗礼名をドン・フランシスコと称した。 |
d |
B |
1569年、毛利氏の北九州への進出に対して、大友氏は○○○○に兵を授けて毛利領に送り込み後方攪乱をはかった。その結果、○○○○は追い詰められて自害したが、毛利氏を九州から撤退させることに成功した。 |
e |
A |
1550年に起こった大友氏の家督をめぐる御家騒動を大友○○○の変と呼ぶ。この事件の結果、宗麟が大友氏の当主となった。 |
f |
E |
宗麟の父の義鑑は、3男の○○○を溺愛し、宗麟の廃嫡をはかった。 |
f |
H |
1576年頃、宗麟は嫡子の○○に家督を譲り、大友氏は二頭政治となった。 |
g |
A |
島津家の侵攻のために領国の維持が危うくなり、豊臣秀吉に助けを求めるため大坂城を訪れた宗麟に対して○○○○は、内々のことは千利休に、公儀のことは自分に相談するよう声を掛けた。これは豊臣政権内における利休の権勢を示す逸話として有名である。 |
h |
D |
1562年、宗麟は○○城(丹生島城。現在の大分県○○市)に居城を移し出家して瑞峰宗麟と号した。 |
h |
H |
大友氏は鎌倉時代に九州に地頭職や守護職を与えられて移住し、現地で勢力を築いた幕府の御家人であった。同様の経緯で九州で大きな勢力を持った島津氏・○○(武藤)氏とともに「九州三人衆」と称された。 |
i |
B |
宗麟の軍師。1578年に宗麟が島津家との決戦のため日向に派兵した際、時機ではないとして延期を献言して宗麟に拒否されると、秘伝の書を焼いて出陣し討ち死にした。 |
i |
F |
宗麟は一門や家臣の妻女を強引に奪うなどの乱行が多かった。筑前支配の要であった○○○○がたびたび離反したのも、宗麟が○○○○の兄である一萬田鑑相や服部右京助らを罪なく誅殺し、服部の妻を妻妾にしたことが原因であるともいわれる。 |




