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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(18)長宗我部元親 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(18)長宗我部元親の解答

タテ

A

b

元親の祖父の兼序のときに長宗我部氏は周辺豪族の攻撃を受けて岡豊城が落城した。家臣に伴われて城を脱出した元親の父・国親は○○○○の庇護の下で育ち、その助けにより旧領を回復し、周辺豪族を破って所領を拡大した。

A

g

「長宗我部元親○○○」は、戦国大名長宗我部氏の分国法である。元親・盛親父子が中心となり、一門・重臣の合議を経て制定されたと考えられる。

B

c

元親は、幼少期には「○○○」とあだ名されるほど柔和な性格であったとされる。

B

g

元親が豊臣秀吉から拝領した名馬。戸次川の戦いで窮地に陥った元親を乗せて敵中を突破し元親の命を救ったという逸話が残っている。

C

a

元親の幼名。

C

d

元親の正室は明智光秀の家臣・○○○○の妹である。

D

d

元親は、廃寺となっていた真言宗慶運寺を再興して臨済宗の寺とした。元親の死後、盛親が寺名を○○寺と改め、長宗我部氏の菩提寺とした。

D

g

1590年、元親は豊臣秀吉の北条氏征討に従軍し、○○○城を包囲した。

E

a

1580年、元親は織田信長との友好のため3000斤(約1800㎏)の○○を贈った。

E

e

長宗我部氏は、聖徳太子に近侍し蜂岡寺(広隆寺)を創建した○○○の子孫、あるいは蘇我氏部民の子孫であるとされる。

F

b

長宗我部氏配下の下級武士。兵農未分離で、農耕に従事する際には田の畦に武具を置き、事があればただちに軍役に服したのでこの名がついた。長宗我部氏の中核的戦力であった。

G

b

1586年、豊臣秀吉の命で島津氏攻略のため九州に出兵して戸次川の戦いで長男の○○を失って以来、元親は性格が一変した。

G

d

○○○○○○は長宗我部国親の三男で、元親の弟。安芸城主となり、兄を助けて四国統一に貢献した。

H

a

羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った○○・○○○の戦いにおいて、元親は信雄・家康と結んで秀吉を挟撃しようとした。

I

b

元親の甥。元親が四男の盛親に家督を相続させようとしたのに反対し、切腹を命じられた。後に元親は木塚明神を建立してその霊をまつった。

I

g

1588年、元親は長宗我部氏累代の居城である岡豊城から○○○城(現在の高知城)に居城を移したが、城下町の治水工事が成功せず、1591年に浦戸城へと再び居城を移した。

ヨコ

a

A

○○○○は元親の三男。元親が豊臣秀吉に降伏した際には人質として秀吉のもとに送られ、家督継承問題の際は元親により幽閉された。関ヶ原の戦いの後、弟の盛親により殺害された。

a

F

元親の死後、関ヶ原の戦いで西軍に属して改易された長宗我部氏に代わって土佐一国を与えられた○○○○は、浦戸一揆や滝山一揆など、長宗我部氏遺臣の抵抗に苦しめられた。

b

A

織田信長は子の○○に四国の長宗我部氏の攻略を命じたが、その準備中に信長が本能寺の変で討たれたために元親は危機を脱した。

b

D

本能寺の変で織田信長が死去すると、元親は信長の重臣であった○○○○と結んで羽柴秀吉に敵対した。

c

B

元親の初陣は、1560年に○○○○の軍を破った長浜の戦いである。

c

H

○○は真言宗の僧で、滝本寺の住職であったが、その学識から元親に重用され、長宗我部氏の内政・外交に活躍した。

d

D

1574年、一条兼定が家臣に追放されると、その混乱に乗じて元親は一条家の所領を奪った。翌年、旧領回復を目指して兼定が挙兵すると、元親は○○○○(渡川)の戦いでこれを破った。

f

A

1596年、元親が治める土佐の浦戸にスペイン船サン=○○○○号が漂着するという事件が起こり、元親の報告を受けた豊臣秀吉により増田長盛が奉行として派遣され、取り調べが行われた。

f

F

島津貴久の四男。豊臣秀吉の命で九州に出兵した元親らの軍を戸次川の戦いで破った。

g

D

豊臣秀吉の家臣で、九州攻略の際には元親ら四国勢の軍監を務めた。無謀な作戦により島津軍に大敗し、元親の嫡子が討死した。

g

H

四国への侵攻を企図する羽柴秀吉に対して、元親は○○一国を返上する条件で和を講じようとしたが、秀吉はこれを認めず交渉は決裂した。

h

B

元親の跡を継いだ盛親は1600年の関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。徳川家康に謝罪したが、戦いの後に家臣の○○○○の讒言に従い兄を殺害したことが家康の怒りに触れ赦されなかったとされる。

h

F

もとは土佐神社の神官であったが、元親に仕えて主に外交面で活躍した。秀吉による四国侵攻の際には、降伏するよう元親に進言した。

i

A

元親の代に長宗我部氏は領土を大きく広げ、元親は「土佐の○○○」と賞賛された。

i

E

1582年、元親は中富川の戦いで○○○○を破り、阿波国を平定した。

ヒント

解答

(17)毛利元就の解答

タテ

A

c

16世紀前半に博多商人の神谷寿禎により開発された鉱山。毛利氏の資金源となった。「○○○○遺跡とその文化的景観」として世界遺産に登録されている。

A

g

元就の幼名。

B

a

出雲国の戦国大名。父・晴久の跡を継ぎ当主となったが、元就の侵攻を受けて降伏、剃髪して友林と号した。

C

b

鎌倉幕府初代政所別当である○○○○の四男季光が相模国毛利荘(神奈川県厚木市)を領して「毛利」の苗字を名乗ったのが毛利氏の始まりである。

D

b

1555年、元就は陶晴賢の軍勢2万余を○○に誘い込み、4000弱の軍で襲撃して全滅させた(○○の戦い)。

D

f

元就の兄の○○と、その嫡男である幸松丸が相次いで早世したために元就が家督を継ぐこととなった。

E

a

尼子国久・誠久父子とその一族は○○○と呼ばれる尼子氏の柱石であったが尼子宗家の晴久により粛正された。この粛正により多くの精鋭が失われたことが後の尼子氏滅亡の大きな原因とされ、この裏には元就の謀略があったともいわれる。

E

e

毛利氏の事績など、中国地方の戦国時代を描いた軍記物語。吉川家の家臣・香川正矩が草稿をまとめ、その次男によって完成した。

F

b

元就の次男である元春が継いだ吉川家と、三男である隆景が継いだ小早川家が毛利本家を補佐する政治体制を「毛利○○体制」と呼ぶ。

F

f

元就は九州にも進出を図り、豊後を本拠とする○○○○(義鎮)と争ったが、○○○○と連携した諸勢力の蜂起・離反などにより1569年に和睦して撤退し、71年に元就が死去すると毛利氏は九州から完全に手を引いた。

G

d

1551年に陶晴賢が謀叛を起こして主君の大内義隆を滅ぼすと、元就ははじめ晴賢に味方しつつ自らの勢力を広げた。そして53年に義隆の旧臣○○○○が反晴賢の兵を挙げた際には元就は晴賢の参陣要求を拒否し、54年に晴賢との断交に踏み切った。

H

a

○○○○(晴英)は中国地方の大名。謀叛を起こして主君を討った陶晴賢によって擁立された傀儡の当主。1555年に晴賢が元就に敗れて死亡し、57年に自身も元就に滅ぼされた。

I

b

元就によって滅ぼされた安芸武田氏の一族で、毛利氏に仕えて外交僧として活動した。外交僧として織田家と接触した際に、信長の没落と秀吉の将来性を予見した逸話が有名。

I

g

元就の四男の元清は○○○元資の養子となり○○○姓を称した。1583年、毛利姓に復した。

ヨコ

a

A

1550年、元就は35年間にわたり権勢を振るった毛利家宿老の○○○○とその一族を粛正して家中の実権を掌握した。

a

F

元就は初陣である有田中井手の戦いで、有田城奪回を目指す○○○○を討ち取った。

b

A

元就は、1497年、毛利○○の次男として生まれた。

b

D

室町幕府13代将軍。将軍の権威回復を目指して積極的に諸国の大名と修交し、元就と尼子氏、元就と大友氏との抗争を調停した。

c

F

元就は、隣郡の領主・吉川国経の娘の○○を妻に迎えた。

d

C

元就が3人の息子に兄弟の結束を説いた書状。有名な「三本の矢」の教えは、こうした歴史的事実をもとに創作されたと考えられる。「毛利元就自筆書状」として毛利博物館に所蔵されている。

e

B

毛利○○は元就の孫。父の急死により家督を継ぎ、元就の後見を受けた。

e

D

元就は1566年に戦国大名・尼子氏の居城である○○城(○○富田城・富田○○城)を攻略し、尼子氏を滅ぼした。

e

F

○○○○城は南北朝時代から戦国時代にかけて毛利氏が本拠とした山城。元就が城域を全山に拡大した。1591年に広島城に移り廃城となった。

f

A

元就は居城の拡張工事の際に、人柱の代わりに「○○○○」と彫らせた石を埋めたとされる。これは「一日一力一心」とも読め、人々が日々力と心を合わせて事に当たるべきことを説いたものとされる。

f

H

毛利○○は元就の長男。元就から毛利家の家督を継承したが、元就に先立って死去した。毒殺されたともいわれる。

g

A

1550年、元就は家中で権勢を振るい横暴な行いが多かった家臣とその一族を誅殺した。その直後に家臣238名は元就に○○○を提出し、その命令に従うことを誓った。ここに家臣たちは独立性を失い、毛利家の戦国大名としての体制が整備された。

g

G

元就は嫡男ではなかったため、はじめ毛利家の家督は兄が継ぎ、元就は多治比○○城に移り住んだ。

h

B

複数の者が中心から円型放射状に署名して作成した文書。対等な立場で盟約を結ぶために用いられ、1557年に作成された元就以下一族の契状が有名。

h

F

能島(愛媛県今治市)を本拠とした水軍の将。元就が陶晴賢と戦った際に元就に助勢し、以後毛利氏に属した。豊臣秀吉の海賊禁止令で勢力を失い、子孫は長州藩に仕えた。

i

A

○○○○(幸盛)は、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣。主家再興を目指して毛利氏と戦い続けたが捕らえられ、備中合の渡で殺害された。

i

G

○○○は山口県長門市にある曹洞宗寺院。中国地方七ヶ国の守護を兼ねた大内義隆が家臣の謀叛に遭ってこの寺で自害する事件が起こると、元就はこれに乗じて勢力を拡大した。

ヒント

解答