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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(21)今川義元 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(21)今川義元の解答

タテ

A

a

「今川○○○○」は、義元の父・氏親が制定し、義元が追加の条文を定めた今川氏の分国法で、東国の戦国大名の分国法としては最古のものである。

A

g

今川家は義元の下で大いに栄え、義元は「○○○の弓取り」と称された。

B

c

○○○○(親長・親氏・義広)は今川氏の一族で義元の妹婿であり、その娘は徳川家康と結婚して築山殿と称された。

C

c

義元は父の氏親により幼時に出家させられ、駿河国の○○○に入れられた。

C

g

1536年に起こった今川氏輝死後の家督争いを「○○の乱」「天文の内訌」などと呼ぶ。この争いに勝利した義元が今川家の家督を継承した。

D

b

三河国岡崎城主。徳川家康の父。一族の者に城を奪われ、義元の後援により回復した。以後は今川家に従って織田家に対抗した。

E

a

建勲神社が所蔵する「義元○○○」と通称される刀は、義元の愛刀であったものを、合戦で義元を討ち取った織田信長が入手し、豊臣家や徳川将軍家などを経て建勲神社に寄進されたものであり、国の重要文化財に指定されている。

E

e

今川家は、足利一門・○○家の支流の家である。今川家には、「御所(足利将軍家)が絶えれば○○がつぎ、○○が絶えれば今川がつぐ」という将軍家継承順位に関する伝承があった。

E

h

徳川家康は、今川家の人質時代に義元から一字を与えられ、松平○○(後に元康と改名)と名乗った。

F

b

天文年間に、駿河国富士川以東の地域をめぐって今川家・武田家と北条家が争った騒乱を○○○○と呼ぶ。

F

f

今川家の家督を継いだ義元は、1537年にそれまで敵対していた甲斐国の戦国大名・○○○○と和睦し、その娘をめとった。

G

b

徳川家康は幼い頃、今川家への人質として送られる途中で織田家に奪われた。義元は、三河国安城城を攻略して城主の○○○○を捕らえ、これとの人質交換により家康を取り戻し、改めて人質とした。

H

a

今川家は、範忠の代に室町幕府6代将軍の足利義教から、惣領家のみに「今川」の苗字を名乗ることを許すという、いわゆる「○○○○○」の恩賞を受けたとされる。

H

g

義元の幼名。

I

d

1536年に義元の兄・今川氏輝が死去して家督争いが起こり、兄の○○○○を打倒した義元が今川家の家督を継いだ。

ヨコ

a

A

義元は僧籍にあった頃には○○○○(1文字目は崩し字の字形が酷似しているため、従来「梅」と読まれてきた)と名乗っていた。

a

F

織田軍の攻撃を受けた際、義元は一番槍をつけた服部小平太の脛を斬り払い、○○○○と組み打ちとなりながらも相手の指を食いちぎる奮戦を見せたとされるが、最後は○○○○に首を取られた。

b

B

○○○○(崇孚・九英承菊)は臨済宗の僧で、今川氏親に請われて義元の養育係となり、義元が家督を継いでからはこれを補佐して今川氏の勢力拡大に大きく貢献した。

b

H

戦国大名としての今川家は義元の死後滅びたが、義元の子孫が江戸時代に幕府に出仕し、○○として存続した。

c

H

義元の死後7年足らずで嫡子の○○は武田家・徳川家に領国を奪われ、戦国大名としての今川家は滅んだ。

d

E

今川氏親の次男で義元の兄に当たる○○○という人物がいたとされるが、今川家側の史料に全く記載がないうえに、兄の氏輝と同日に死亡するという不可解な死に方をしている謎の多い人物である。

e

A

1560年、織田信長が義元を討ち取り今川軍を破った戦いを○○○の戦いと呼ぶ。

f

A

1542年と1548年の2度にわたり、義元と○○○○との間に起こった戦いを小豆坂の戦いと呼ぶ。

f

G

愛知県名古屋市の熱田神宮境内にある○○○は、義元との決戦に臨む織田信長が当社で勝利を祈願して大勝したため寄進したものである。

g

A

今川家は範国以来、○○の紋章を笠験(戦場で敵味方を区別するための標識)として用いてきた。

g

D

1554年、義元は甲斐の武田信玄・相模の○○○○との間に三国同盟を結んだ。これにより義元は三河方面の経略に専念できるようになった。

h

A

「義元」という名は○○○○の偏諱を受けたものである。

h

G

今川氏親の正室で、義元の母。氏親の晩年、また氏親死後若年の氏輝が家督を継いだ際に、夫や子に代わって今川家の政務を執った。

i

B

義元が討死にした際に、家臣の○○○○(元信・真幸)は義元の首の返還を要求して鳴海城で籠城を続け、義元の首を駿河に持ち帰った。

i

G

東京都港区にある○○○は、かつて今川家の人質であった徳川家康が義元の菩提を弔うために創建した曹洞宗寺院である。

ヒント

解答

(20)島津義弘の解答

タテ

A

a

関ヶ原の戦いの際、義弘は徳川家康から伏見城の留守を頼まれていたが、城を守備する徳川家家臣の○○○○に入城を拒まれたため、わずかな兵で西軍の勢力圏に取り残される形となり、やむを得ず西軍に属することとなった。

A

f

1607年に義弘は○○○の地に移り住み、1619年に死去するまでの12年間をここで過ごした。

B

d

肥後国内で勢力を拡大していた相良義陽に対し、島津氏は1579年に侵攻を開始し、1581年には11万5000人とされる大軍で○○城を完全に包囲して降伏させた。

B

f

島津氏は惟宗氏を本姓とし、惟宗忠久が○○○により島津荘の荘官に任じられたことに始まる氏族だが、忠久を○○○の御落胤とする伝承が存在する。

C

d

慶長の役の際に義弘が朝鮮から陶工を連れ帰ったことが、○○○と呼ばれる鹿児島県で作られる陶磁器の発祥となった。

C

h

1599年、義弘は剃髪して○○と号した。

D

a

1572年、義弘は○○○の戦いにおいて、約3000人とされる日向の大名伊東氏の軍をわずか300人の軍で破った。

D

d

1598年、豊臣秀吉の死により日本軍は朝鮮からの撤退を開始した。この際順天にいた○○○○の退路が断たれたため、義弘は露梁海戦で明・朝鮮軍と戦い、その撤退を成功させた。

D

h

義弘は1535年に島津○○の次男として生まれた。

E

a

義弘の子で薩摩藩初代藩主となった島津家久は、同名の叔父(義弘の弟)である家久と区別するために初名である○○の名で呼ばれることが多い。

E

e

1587年、降伏した島津氏に対し、豊臣秀吉は当主の義久に薩摩一国を安堵し、義弘に○○一国、義弘の子の久保に日向国諸県郡を与えた。また、義弘の弟の家久は日向国佐土原を安堵され独立した大名として取り立てられたが、その直後に死去した。

F

c

1587年4月17日、島津氏は当主の義久自らが軍を率い、義弘らも参加して○○○で豊臣軍との決戦に臨んだが敗れ、戦意を失った義久は降伏を受け入れた。

G

c

朝鮮の武将。豊臣秀吉の命により朝鮮出兵が始まると、水軍を率いて日本軍と戦った。義弘の軍との間に起きた露梁海戦で戦死し、救国の英雄として忠武公と諡された。

G

h

1600年、関ヶ原の戦いで敗れて帰国した義弘は○○に蟄居した。

H

d

戦国時代の島津氏は一族内での争いが続いていたが、島津氏中興の祖と呼ばれ義弘の祖父に当たる、伊作家出身の○○(日新斎)が勢力を拡大して子に島津宗家を継承させた。

H

h

○○氏は大隅半島に大きな勢力を持った一族で島津氏の大隅進出の障害となったが、1574年に兼亮が島津氏に降り、以後家臣として仕えた。

I

a

徳川家康の重臣。関ヶ原の戦いにおいて、敵中を突破して退却を図る義弘の軍を追撃し大きな被害を与えたが、自身も右腕に銃弾を受けて落馬し、この時の怪我がもとで右腕が不自由になり、翌々年に死去した。

I

g

島津氏は義久の代に弟の義弘・○○・家久に支えられて九州の大部分を制圧するまでに勢力を広げたが、豊臣秀吉の侵攻を受けて降伏した。

ヨコ

a

A

義弘は○○○に師事して茶道を嗜んだ。

a

E

関ヶ原の戦いに敗れた義弘と○○○○が領国に落ち延びる際、義弘の軍はわずか数十騎にまで減っており、島津氏との戦いで死んだ○○○○の実父・高橋紹運の敵を討つ好機であると勧める家臣がいたが、○○○○はこれを叱りつけ、義弘と協力して領国に下ったとされる。

b

A

義弘は初名を忠平といい、1586年に○○○○の偏諱を受けて義珍(よしまさ)、翌年義弘と改名した。

b

F

豊後の大名○○○○(義鎮)は、最盛期には九州の6ヶ国に及ぶ大版図を築いたが、1578年の耳川の戦いで島津氏に大敗したのを機に急速に衰退した。

c

B

豊臣秀吉の家臣。秀吉による島津氏攻略の際、軍監として豊臣軍の先遣隊を率いたが、戸次川の戦いで無謀な作戦により長宗我部信親らが討ち死にする大敗を喫してしまい改易された。

c

G

筑前の大名・秋月種実は島津氏と結んで島津氏の筑前攻略を先導した。豊臣秀吉の九州攻めに際しても当初島津氏に属して降伏するのが遅れたが、初花肩衝・新田肩衝とともに天下の三大名物茶入と称された○○肩衝などを献上して赦された。

d

E

義弘は1554年の○○城の戦いにおいて初陣を飾り、以後3年間○○城に在番した。

e

A

1592年に島津氏家臣の○○○○が豊臣政権に対して起こした反乱は○○○○が謀殺されたことにより速やかに鎮圧され、島津領内における豊臣権力の確立が進んだ。

e

H

慶長の役において義弘は明の圧倒的な大軍を○○新城で迎え撃ち、3万8717人を討ち取りほかにも多数の敵兵を斬り捨てる(数字は義弘自身の報告による)という勝利を収めた(○○の戦い)。

f

E

関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、島津軍は義弘の甥の豊久や家老の○○○○○が義弘を逃がすために身代わりとなって討ち死にするなど壮絶な退却戦を敢行し、敵中を突破して義弘を無事帰国させた。

g

A

島津氏の宿老。豊臣政権との折衝を通して政権中枢にあった石田三成らと親しく交わり、太閤検地後に8万石の領地を与えられるなど権勢を誇った。1599年、伏見において義弘の子である島津家久により、謀叛を企てたとの理由で殺害された。

g

F

島津義久の家老を務めた○○○○の日記は、当時の上級武士の生活や島津氏の領国支配・版図拡大の様子が窺える貴重な史料である。

h

D

義弘の母は○○○重聡の娘である。

i

A

義弘の幼名。

i

E

関ヶ原の戦いで西軍の主力の一人として戦った○○○○○は、敗戦後に義弘を頼って薩摩に落ち延び、3年間島津家のもとで匿われた。その後徳川家に身柄を引き渡され、1606年に八丈島に流罪となった。

ヒント

解答