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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(22)斎藤道三 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(22)斎藤道三の解答

タテ

A

a

道三が史料に初めて現れるのは1533(天文2)年の古文書においてであり、この時道三は○○○○と名乗っていた。

A

f

従来の説では、道三の父は○○○○(左近将監)という者であるとされていた。

B

c

道三の孫の龍興は、織田信長に美濃を奪われた後、一向一揆や三好三人衆などのもとに身を寄せ信長に抵抗を続けた。最後は越前の○○○○を頼ったが信長に滅ぼされ、龍興も敗死した。

C

f

従来の説では、道三は僧侶時代の兄弟弟子の紹介で○○○○に仕え、土岐頼芸の信任を得て台頭し、○○○○を殺害して家を乗っ取ったとされた。

D

a

近年発見された史料によれば、道三の父の○○○○○は、はじめ京都の僧侶であったが、美濃に来て長井氏に仕え、次第に台頭し長井姓を称するようになったという。

E

f

岐阜県にある寺。斎藤氏の帰依を受けた。国の重要文化財である斎藤道三と義龍の肖像を寺宝とする。また、五世住職の日饒と六世住職の日覚は道三の子であるという。

F

a

道三が家督を奪った斎藤氏は、代々美濃国の○○○を務めた家柄である。

F

h

○○(濃姫)は道三の娘。織田家との和睦に際して信長と結婚した。

G

c

○○○○○(雄就・空石。姓は延永とも)は斎藤家の家臣。斎藤義龍の命により義龍の2人の弟(道三の子)を殺害したとされる。斎藤家が織田信長に滅ぼされた後は今川家・伊勢長島門徒衆などに属して信長に抵抗を続けたが、後に信長の家臣となった。

H

c

道三は嫡子の義龍に家督を譲ったが、後に義龍の弟の○○○を立てようとしたため、義龍は○○○ら2人の弟を殺害した。

H

g

従来の説では、道三は武士になる前には山崎屋という屋号の油商人であったとされ、客の壺に油を注ぐのに漏斗を使わず○○○の穴を通して垂らし、こぼしたらただにするというパフォーマンスにより大いに繁盛したとされた。

I

a

従来の説では、長井家に仕えて武士となった道三は長井家家臣の名跡を継いで○○○○○正利と名乗ったとされた。

I

f

斎藤氏は、応仁の乱における活躍で有名な斎藤○○が美濃を統一して勢力を誇ったが、1496年に利国・利親父子が戦死し、以後は家宰の長井氏が美濃の国政を左右することとなった。

ヨコ

a

A

道三が名跡を継いだ斎藤氏は、「芋粥」の説話で有名な○○○○の子の叙用が斎宮頭に任ぜられて「斎藤」を称したことに始まる氏族である。

a

E

○○○○は美濃国の武将で斎藤家に仕え、長兄・光継の跡を継いだ。本能寺の変を起こした光秀の叔父。妹が道三の正室であり、道三と子の義龍が争った際に道三に味方し、敗れて自害した。

b

B

従来の説では、道三は1528年に美濃守護の○○○○(盛頼)を追放して弟の頼芸を守護につけ、後に頼芸をも追放して美濃国を奪ったとされた。

b

G

従来の説では、道三(近年発見の史料では道三の父)ははじめ京都の○○○の学僧であったという。この寺には道三の遺言状が所蔵されている。

c

C

1556年、道三は○○○の河畔で子の義龍と戦い敗死した。

c

G

道三の正室は、明智光継の娘の○○の方である。

d

C

尾張国の戦国大名。1544年に越前の朝倉孝景と呼応して道三を攻めたが大敗し、多くの死者を出した。後に嫡子の信長と道三の娘を結婚させ、斎藤家と和睦した。

e

A

近年発見された、○○○○(義賢)が家臣に宛てた古文書の記述から、斎藤道三が一代で成し遂げたと従来考えられてきた事績は、実際には父と道三の親子二代の話であると考えられるようになってきた。

e

E

1553年、道三は美濃・尾張国境付近の○○○で娘婿の織田信長と会見した。この際に、世間から「うつけ」と評されていた信長の力量を見抜き、自分の子供たちが信長の家臣となることを予言した逸話は有名である。

f

D

○○○城は斎藤氏代々の居城であり、道三が麓の井ノ口に城下町を建設したことから井ノ口城とも呼ばれた。後に織田信長が美濃を攻略し、岐阜城と名を改めた。

f

H

1548年、道三は嫡子の義龍に居城を譲り、自らは○○城に隠居した。

g

B

従来の説では、道三の先祖は代々○○○○○であったとされた。○○○○○とは、1086年に院政を開始した白河院が設置した、院の御所に伺候する武士である。

h

B

道三の側室。もとは土岐頼芸の側室で、1526年頃道三の側室になったという。

h

E

1556年、道三は義龍との戦いで、長井忠左衛門に組みつかれたところを○○○○○に脛を斬られたうえ首を取られ、さらに手柄の証拠として忠左衛門に鼻を削がれたという。

i

A

斎藤氏の家督を乗っ取った道三は、斎藤○○と称した。

i

D

下級の者が上級の者を実力で打倒して取って代わることを○○○といい、道三はこの典型的な例とされる。

i

G

従来の説では、道三は11歳のとき寺に入り○○○と称したとされた。

ヒント

解答

(21)今川義元の解答

タテ

A

a

「今川○○○○」は、義元の父・氏親が制定し、義元が追加の条文を定めた今川氏の分国法で、東国の戦国大名の分国法としては最古のものである。

A

g

今川家は義元の下で大いに栄え、義元は「○○○の弓取り」と称された。

B

c

○○○○(親長・親氏・義広)は今川氏の一族で義元の妹婿であり、その娘は徳川家康と結婚して築山殿と称された。

C

c

義元は父の氏親により幼時に出家させられ、駿河国の○○○に入れられた。

C

g

1536年に起こった今川氏輝死後の家督争いを「○○の乱」「天文の内訌」などと呼ぶ。この争いに勝利した義元が今川家の家督を継承した。

D

b

三河国岡崎城主。徳川家康の父。一族の者に城を奪われ、義元の後援により回復した。以後は今川家に従って織田家に対抗した。

E

a

建勲神社が所蔵する「義元○○○」と通称される刀は、義元の愛刀であったものを、合戦で義元を討ち取った織田信長が入手し、豊臣家や徳川将軍家などを経て建勲神社に寄進されたものであり、国の重要文化財に指定されている。

E

e

今川家は、足利一門・○○家の支流の家である。今川家には、「御所(足利将軍家)が絶えれば○○がつぎ、○○が絶えれば今川がつぐ」という将軍家継承順位に関する伝承があった。

E

h

徳川家康は、今川家の人質時代に義元から一字を与えられ、松平○○(後に元康と改名)と名乗った。

F

b

天文年間に、駿河国富士川以東の地域をめぐって今川家・武田家と北条家が争った騒乱を○○○○と呼ぶ。

F

f

今川家の家督を継いだ義元は、1537年にそれまで敵対していた甲斐国の戦国大名・○○○○と和睦し、その娘をめとった。

G

b

徳川家康は幼い頃、今川家への人質として送られる途中で織田家に奪われた。義元は、三河国安城城を攻略して城主の○○○○を捕らえ、これとの人質交換により家康を取り戻し、改めて人質とした。

H

a

今川家は、範忠の代に室町幕府6代将軍の足利義教から、惣領家のみに「今川」の苗字を名乗ることを許すという、いわゆる「○○○○○」の恩賞を受けたとされる。

H

g

義元の幼名。

I

d

1536年に義元の兄・今川氏輝が死去して家督争いが起こり、兄の○○○○を打倒した義元が今川家の家督を継いだ。

ヨコ

a

A

義元は僧籍にあった頃には○○○○(1文字目は崩し字の字形が酷似しているため、従来「梅」と読まれてきた)と名乗っていた。

a

F

織田軍の攻撃を受けた際、義元は一番槍をつけた服部小平太の脛を斬り払い、○○○○と組み打ちとなりながらも相手の指を食いちぎる奮戦を見せたとされるが、最後は○○○○に首を取られた。

b

B

○○○○(崇孚・九英承菊)は臨済宗の僧で、今川氏親に請われて義元の養育係となり、義元が家督を継いでからはこれを補佐して今川氏の勢力拡大に大きく貢献した。

b

H

戦国大名としての今川家は義元の死後滅びたが、義元の子孫が江戸時代に幕府に出仕し、○○として存続した。

c

H

義元の死後7年足らずで嫡子の○○は武田家・徳川家に領国を奪われ、戦国大名としての今川家は滅んだ。

d

E

今川氏親の次男で義元の兄に当たる○○○という人物がいたとされるが、今川家側の史料に全く記載がないうえに、兄の氏輝と同日に死亡するという不可解な死に方をしている謎の多い人物である。

e

A

1560年、織田信長が義元を討ち取り今川軍を破った戦いを○○○の戦いと呼ぶ。

f

A

1542年と1548年の2度にわたり、義元と○○○○との間に起こった戦いを小豆坂の戦いと呼ぶ。

f

G

愛知県名古屋市の熱田神宮境内にある○○○は、義元との決戦に臨む織田信長が当社で勝利を祈願して大勝したため寄進したものである。

g

A

今川家は範国以来、○○の紋章を笠験(戦場で敵味方を区別するための標識)として用いてきた。

g

D

1554年、義元は甲斐の武田信玄・相模の○○○○との間に三国同盟を結んだ。これにより義元は三河方面の経略に専念できるようになった。

h

A

「義元」という名は○○○○の偏諱を受けたものである。

h

G

今川氏親の正室で、義元の母。氏親の晩年、また氏親死後若年の氏輝が家督を継いだ際に、夫や子に代わって今川家の政務を執った。

i

B

義元が討死にした際に、家臣の○○○○(元信・真幸)は義元の首の返還を要求して鳴海城で籠城を続け、義元の首を駿河に持ち帰った。

i

G

東京都港区にある○○○は、かつて今川家の人質であった徳川家康が義元の菩提を弔うために創建した曹洞宗寺院である。

ヒント

解答