知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(9)岩倉具視 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール
- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント
ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(9)岩倉具視の解答
タテ
A |
b |
1873年、○○○○三条実美が征韓論問題への対応に苦慮した末に発病すると、勅命により具視がその職を代行した。 |
A |
f |
1872年、ワシントンに到着した岩倉使節団はアメリカ政府との条約改正交渉に入ろうとしたが、使節団が交渉に関する○○○を所持していないという手続き上の不備を指摘され、その取得のため大久保利通と伊藤博文が急遽帰国することとなった。 |
B |
a |
岩倉家は、○○○○の流れを汲む久我家の支流の家である。 |
B |
f |
具視は前権中納言○○○○の次子としてうまれ、岩倉家に養子に入った。 |
C |
b |
具視の幼名。 |
C |
d |
1858年、○○○○○○条約への勅許を得るため幕府老中の堀田正睦が上洛すると、勅許に反対する具視ら88人の廷臣が列参するという事件が起きた。 |
D |
a |
1874年、具視が征韓論者の元官僚・軍人に襲撃された暗殺未遂事件を、襲撃場所の地名から○○○○の変と呼ぶ。 |
D |
f |
1862年、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を佐幕派と見なした尊攘派は、彼等を「○○○○」と称して攻撃し、朝廷から排斥した。 |
E |
c |
具視は関白○○○○に入門して歌道の教えを受けたが、これがきっかけで具視は孝明天皇の侍従となり、政治に関与する道が開けた。 |
F |
d |
1862年、薩摩藩の○○○○が入京して公武合体運動に乗り出し、江戸への勅使派遣を要請すると、具視はこれに協力した。これにより具視と薩摩藩との結びつきが生まれた。 |
G |
a |
具視ははじめ公武合体による朝権回復を志向しており、孝明天皇の妹である○○の徳川家茂への降嫁を推進した。そのため尊攘派に糾弾され、一時朝廷から追われ洛北の岩倉村に幽居することとなった。 |
H |
c |
岩倉使節団が欧米諸国を歴訪している間、日本の留守政府では征韓論が高まっており、筆頭参議の○○○○を遣韓大使として派遣することが決定されていた。帰国した岩倉は大久保利通らとともにこれに反対し、遣使を中止させた。 |
H |
h |
1884年に制定された○○○により、具視の嗣子の具定は公爵に叙された。 |
I |
a |
急進的な憲法を志向する大隈重信の失脚後、具視は参議の○○○○を憲法の起草者に指名した。 |
I |
e |
1881年に具視が提出した憲法意見書は、統帥権・宣戦講和条約締結権・恩赦権・文武官任免権などの○○○○を含むものであった。 |
ヨコ
a |
A |
岩倉は、有力華族の出資による華族銀行の設立を企図し、1877年に○○○○○銀行を設立した。 |
a |
F |
小御所会議において土佐藩の○○○○(豊信)が王政復古の断行を「幼沖の天子」を擁して「権柄」を奪ったと非難すると、具視はこの発言を叱責した。最終的に具視らの意見が通り、徳川慶喜に次辞官納地を求めることが決定された。 |
b |
C |
○○○○会社は現在のJR東日本東北本線・高崎線などを経営した日本最初の私設鉄道会社であり、具視が参加して1881年に設立された。 |
b |
H |
1883年に死去した具視の葬儀は、国家に偉勲ある者に対して特旨により行う○○の最初の例となった。 |
c |
F |
教育者。1871年、7歳の時に岩倉使節団に随行し、日本初の女子留学生としてアメリカに留学した。帰国後、津田塾大学の前身にあたる女子英学塾を創立した。 |
d |
B |
具視は憲法編纂に際して立憲政体に反対するなど保守的な態度をとっており、○○○○風の急進的な憲法を志向する大隈重信を政府から追放し、プロシア風憲法制定の方針を確定させた。 |
d |
G |
岩倉家のような、近衛少将・中将を経て中納言・大納言に至る公家の家格を○○家と呼ぶ。 |
e |
A |
1881年に具視が提出した憲法意見書は、プロシア憲法にならった漸進主義的な憲法を志向していた太政官大書記の○○○に命じて調査・起草させたものであった。 |
e |
D |
○○○○○の政変で、政党内閣制を含む急進主義的な憲法を構想する大隈重信が政府から追放されたことにより、具視が構想する漸進主義的な憲法制定の方向性が確定した。 |
f |
D |
征韓論問題において朝鮮への大使派遣に反対する具視は、○○問題が急務であるとの趣旨を上奏し、遣使中止の上諭を得た。 |
f |
G |
明治維新により新政府が成立すると、具視は○○○(1871年就任)として政府内で重きをなした。 |
g |
C |
『特命全権大使○○○○○○』は、欧米12ヶ国を歴訪した岩倉使節団の公式記録。具視が題字を書き、1878年に博聞社から刊行された。 |
h |
A |
国学者。諱は真弘。門人の紹介で蟄居中の具視と知り合い、以後その謀議に参画した。小御所会議において具視が示して諸侯を感嘆させた王政復古の詔勅案の作者。 |
h |
E |
1873年にウィーンで開催された○○○○○には政府が初めて正式に参加し、同年6月には欧州を歴訪中の岩倉使節団一行がこれを視察した。 |
i |
A |
王政復古により摂関や征夷大将軍などの職が廃され、新たに総裁・議定・参与からなる○○が設置されると、具視ははじめ参与、ついで議定、副総裁に任じられた。 |
i |
D |
歴史学者の○○○○は、岩倉使節団に随行し、その公式記録を執筆した。帝国大学教授となったが、「神道ハ祭天の古俗」と題する論文が神道家の反感を買い、辞職に追い込まれた。 |
i |
H |
岩倉家は、江戸時代初期に久我具起が岩倉を称したのに始まる。このような、慶長年間以降に新設された公家の諸家を○○と呼ぶ。 |
ヒント
解答
(8)井伊直弼の解答
タテ
A |
b |
将軍継嗣問題において一橋慶喜を支持した一橋派に対し、徳川慶福を支持した直弼らの勢力を○○○と呼ぶ。 |
A |
e |
開国論を唱えた開明派の幕臣。将軍継嗣に一橋慶喜を推し、徳川慶福を推す直弼から疎まれたが、外交交渉の第一人者であったためしばらくは処罰を免れた。直弼の下で井上清直とともに日米修好通商条約に調印した。後に直弼によって左遷・罷免された。 |
B |
d |
条約勅許問題に際して関白○○○○は幕府支持に傾き、外交を幕府に一任する旨の勅を出そうとしたが、廷臣の反対運動により挫折した。 |
B |
h |
井伊氏は戦国時代には○○氏に属していたが、直親が讒言により誅殺され、孤児となった直政が後に徳川家康に仕えて譜代大名となった。 |
C |
a |
越前国鯖江藩主。直弼の下で老中として日米修好通商条約調印の事情説明のため上洛し、京都で志士弾圧の指揮を執った。江戸に戻った後直弼と不和になり免職された。 |
D |
a |
○○○は大久保利通らを指導者とする薩摩藩の尊皇攘夷派グループ。薩摩藩における直弼暗殺計画の中心であり、水戸の同志と密会を重ねて計画を練った。 |
D |
f |
国学者。主膳の通称で知られる。部屋住み時代の直弼に国学を講じ、師弟の契りを結んだ。直弼が彦根藩主になると側近として重用された。直弼の幕閣時代には京都で志士の動静を探り、その逮捕を進言して志士弾圧のきっかけをつくった。直弼の死後も彦根藩の藩政に参与したが、政変が起こり処刑された。 |
E |
c |
1815年、直弼は彦根藩主井伊○○の十四男として生まれた。 |
F |
b |
直弼は部屋住み時代に居合術を修め、自ら○○○流という流派を立てるほどの達人であった。 |
F |
e |
江戸幕府第十三代将軍。生来病弱であり、実子がいなかったため後継者の選定が政治問題化した。直弼は紀伊藩主の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す勢力と激しく対立した。 |
G |
b |
彦根藩は大名のなかで唯一○○の生産を認められており、その味噌漬は「養老の秘薬」として将軍家・御三家などに毎年献上されていたが、直弼は仏教の禁忌を忠実に守りこれを禁止した。 |
G |
e |
1858年から、直弼が将軍継嗣問題・条約勅許問題における反対派を弾圧した事件を、当時の年号から○○○○○と呼ぶ。 |
H |
a |
勅許を得ないまま日米修好通商条約を結んだことに対して直弼は、大政委任を受けた幕府が「臨機の○○」をとるのは当然のことであるとの見解を示し、「勅許を待たなかった重罪は甘んじて自分一人が受ける」とした。 |
H |
c |
直弼が締結した不平等条約は明治政府にも引き継がれ、最終的に条約改正が達成されたのは1911年、○○○○○外務大臣の時のことであった。 |
I |
a |
佐倉藩主。1855年に老中首座となる。開国政策を支持し、アメリカとの通商条約への勅許を得るため上洛したが、果たせないまま江戸に戻った。将軍継嗣問題でははじめ徳川慶福を支持したが、勅許の獲得に難航すると、その実現のために朝廷に信任のある一橋慶喜を支持する方針に転じた。慶福を推す直弼により老中を罷免され、さらに違勅調印の責を負わされ隠居させられた。 |
I |
f |
福井藩士。大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で蘭学などを学んだ。藩主・松平慶永に側近として登用され、一橋慶喜を将軍とする運動に奔走したが、直弼により徳川慶福が将軍後継とされた。直弼が行った弾圧で捕らえられて処刑された。 |
ヨコ
a |
A |
1831年、直弼は藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城第三郭の屋敷に移った。兄が多く、また側室の子であったため家督を継ぐ望みがないように思えた自身の境遇を花を咲かせることのない木にたとえ、直弼はこの屋敷を○○○と名付けた。 |
a |
E |
水戸藩主であり、直弼の政敵。将軍継嗣問題では自身の実子である一橋慶喜を後継者に推し、徳川慶福を推す直弼らと対立した。直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことに怒り不時登城して直弼を非難したが、かえって不時登城の罪で謹慎を命じられた。 |
b |
B |
彦根藩は、徳川家康に仕えた井伊直政が関ヶ原の戦功により○○○○の旧領である佐和山に18万石を与えられ、嫡子直勝の時に彦根城を築城して移ったことに始まる。 |
b |
F |
○○○○は、江戸後期~明治初期の女性。京都で芸妓となり、後に直弼の寵愛を受けた。直弼が反対派を弾圧した際には情報役として陰で活躍し、尊攘派によって三条大橋で生きさらしにされた。 |
c |
A |
直弼の暗殺後に次男の○○が跡を継いだが、事件の責任を問われて彦根藩は10万石を減ぜられた。 |
d |
C |
1860年、直弼が水戸浪士らの襲撃を受け殺害された事件を○○○○の変と呼ぶ。 |
d |
G |
○○○は、アメリカの商人・教育者で、初代駐日総領事となった。1858年、江戸湾小柴沖のポーハタン号上で日米修好通商条約に調印し、その功績により公使に昇格した。 |
e |
B |
直弼が結んだ日米修好通商条約は、居留民に対する事実上の治外法権を意味する○○○○権、日本側の関税自主権の喪失などを含む不平等条約であった。 |
e |
H |
1858年、直弼は江戸幕府の○○に就任した。 |
f |
A |
直弼は片桐宗猿について石州流茶道の奥義を極め、茶号を宗観を称して『○○○○○』を著した。 |
g |
C |
直弼が孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことなどにより朝幕関係が悪化すると、朝廷は「○○○○○」と呼ばれる幕府の対応を批判する勅諚を水戸藩に下した。これは天皇の幕府・諸藩に対する最初の政治的所信表明であり、直弼に反対派の弾圧を決意させる一因となった。 |
h |
C |
1847年、彦根藩が幕府から相州警備を命じられた際に直弼は、井伊家は○○○○の家柄であると反発した。 |
h |
H |
江戸時代に刊行された、大名・旗本・幕府役人の名鑑を総称して「○○」と呼ぶ。直弼を襲撃した水戸浪士らは、この本を手にして、上巳の節句(桃の節句)で諸大名が祝賀のために登城する行列の見物を装っていた。 |
i |
A |
薩摩藩を脱藩した浪士。直弼の襲撃に参加し、直弼を輿から引き出して首を取ったが自身も重傷を負い自刃した。 |
i |
G |
井伊氏は○○氏を本姓とする氏族で、○○共保が遠江守に任じられて井伊谷に住み、井伊氏を称したことに始まるとされる。 |