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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(30)黒田如水 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(30)黒田如水の解答

タテ

A

b

いわゆる「中国大返し」の際、如水は○○○○○から借り受けた毛利家の旗を陣の先頭に立て、毛利軍が秀吉の軍勢に加わっているように見せかけたとされる。

B

a

はじめ如水は○○○を武士のやることではないと嫌悪・嘲笑していたが、豊臣秀吉から誰にも怪しまれずに軍事の相談ができるのも○○○の効用であると教えられて納得し、稽古を始めたとされる。

B

f

1567年、如水は櫛橋伊定の娘の○○(光の方)と結婚した。

C

b

フロイスの書翰によれば、如水は1583年に○○○○に導かれてキリスト教の洗礼を受け、シメオンと称したという。

C

f

文禄の役で朝鮮に在陣していた1593年、如水は○○○○と囲碁をしていて石田三成らを待たせ、さらにこのことを豊臣秀吉に弁明するため無断で帰国したので秀吉の怒りを買い蟄居謹慎を命じられた。

D

d

1582年、明智光秀が山崎の戦いで敗れて○○○城に退却すると、如水はこれを攻める際に逃げ口を一ヶ所開けるよう羽柴秀吉に献策したとされる。これにより逃亡する兵が続出し、光秀も城を捨てて逃げざるを得なくなり、逃走中に落ち武者狩りに遭って死亡した。

D

g

如水は織田家の部将として中国地方攻略のために下ってきた羽柴秀吉に自身の居城である○○城を提供し、自らは国府山城に移った。

E

a

『大和本草』の著者として知られる江戸時代前期から中期の儒学者・博物学者。福岡藩に仕え、君命により『黒田家譜』を編纂した。

E

g

如水には長男の長政のほかに○○○という男子がいたが、1597年の慶長の役の際に、如水の許可を得ずに城を抜け出して朝鮮で戦っていた如水や長政のもとに向かい、嵐で船が転覆して16歳で死去した。

F

a

関ヶ原の戦いの論功行賞で嫡男の長政が筑前52万石の領主となると、如水は○○の地を福岡と改称し、福岡城の築城を開始した。

F

d

豊前国の大名。苗字は「城井」とも称される。豊臣秀吉の九州攻略の際、はじめは帰服したが、転封を命令されるとこれを拒否して反乱を起こし、黒田長政の追討軍を破った。1588年に講和が成立したが、如水の謀略により多くの一族とともに謀殺された。

G

f

1600年の関ヶ原の戦いでは如水は東軍に属し、肥後半国の領主で同じく東軍であった○○○○と連携して九州の西軍と戦った。

H

c

如水の家臣。諱は友信。福島正則から名槍「日本号」を飲み取ったという逸話があり、民謡「黒田節」として知られる。

I

a

1578年に如水が敵方の有岡城に幽閉された際、織田信長は如水が戻ってこないため敵方に寝返ったと勘違いして如水の子の松寿丸(後の長政)を殺すよう命じたが、○○○○(半兵衛)が自らの判断でこれをかくまった。

I

e

1597年の慶長の役で、豊臣秀吉は○○○○○を総大将とし、如水をその後見役に任命した。

ヨコ

a

A

豊後国の大名。朝鮮出兵の際に敵前逃亡したため豊臣秀吉の怒りを買い改易された。関ヶ原の戦いが起こると旧領回復を企てて豊後に入り、馳せ参じた旧臣により3000ほどの軍勢を形成したが、石垣原の戦いで如水に敗れた。

a

F

1587年、如水は豊臣秀吉の弟の秀長に従って島津氏征討に参加し、○○○の戦いで島津軍を破った。

b

D

如水の父職隆は、御着城の城主○○政職に属し、○○姓を与えられた。如水もはじめは○○姓を名乗っていた。

b

G

黒田氏は、1511年に足利義稙・細川高国らと細川澄元・三好之長らが争った○○○の戦いにおける軍令違反のために如水の曽祖父にあたる高政が近江を追われ、備前国に移住したとされる。

c

D

1569年、○○○○の軍を青山の戦いで破り、如水の武名は一気に高まった。

d

A

黒田氏は、近江源氏・佐々木氏が信綱の子の代に4家に分かれたうちの○○氏の支流とされる。

d

E

如水の家臣。諱は基次。九州攻略や文禄の役などで戦功を挙げた。如水の跡を継いだ長政と折り合いが悪く、黒田家を去った。後に豊臣家の招きに応じ、大坂の陣で戦死した。

e

B

1578年、如水は織田信長に背いた有岡城主○○○○を説得するため有岡城に入ったが、説得に失敗して幽閉された。

e

G

鎌倉幕府が編纂した史書『○○○』は諸本のなかでも国立公文書館内閣文庫に所蔵されるものが一番の善本とされる。これは、1590年の豊臣秀吉による北条氏征討の際に、小田原城開城の折衝に当たった如水に対して北条氏から贈られたものとされる。

f

E

1583年、如水は豊臣秀吉の命令で普請奉行として○○城の築城を開始した。

g

A

1575年、如水は主君を説いて織田信長への従属を決断させ、使者として岐阜に赴いた。この際、信長から「○○」(「○○長谷部」)という刀を与えられた。

h

A

1591年、豊臣秀吉の命により、如水は肥前○○○城の縄張を担当した。

h

D

1582年、備中○○城を水攻めにしていた羽柴秀吉のもとに本能寺の変の知らせが届いた際に、如水は秀吉に対して天下を取る好機だと助言したとされる。

h

G

1587年に豊臣秀吉から豊前国6郡を与えられた如水は、翌年○○城に入り、ここを居城とした。

i

A

1584年、如水は○○○○○の娘を嫡子長政の正室に迎えた。

i

F

如水は、同じキリシタン大名の○○○○が1600年の関ヶ原の戦いで敗れて斬首されると、その旧臣のキリシタン武士を多く召し抱えた。

ヒント

解答

(29)石田三成の解答

タテ

A

a

関ヶ原の戦いにおいて三成ら西軍首脳は○○○○を挙兵の盟主とすることを決め、西軍総大将として擁立した。

A

f

三成が建立した○○○寿聖院は、三成が関ヶ原の戦いに敗れたのち、当時12~13歳であった嫡子が出家した寺院として知られる。

B

c

三成は豊臣政権の内政面において大きく貢献した。なかでも秀吉が全国規模で実施した田畑の面積や収量の調査である○○○○に関しては早くから奉行として参画した。

B

h

三成は豊臣政権の中枢にあって政務に携わっていたため、所領の支配は三成に代わって父の○○が担った。

C

a

1587年、豊臣秀吉の九州侵攻を受けて○○○○は秀吉に降伏し、○○○○が在京することなどを条件として許された。一年余りに及んだ在京中は三成と細川幽斎がなにかと面倒をみて厚くもてなし、○○○○はこれに深く感謝した。

C

f

○○○○は、豊臣政権下で三成とともに奉行を務めた。三成から徳川家康に対する挙兵の計画を打ち明けられた際には思いとどまるよう説得したが、三成の決意が固いことを知ると親友である三成のために行動をともにし、関ヶ原で奮戦の末に自害した。

D

c

三成の幼名。

D

h

1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は、家康の家臣である鳥居元忠が守る○○城および細川幽斎が守る田辺城の攻略を開始した。

E

f

1600年7月、前田玄以ら3人の奉行は、「○○(徳川家康の官職)ちがひの条々」という家康を弾劾する檄文を諸大名に送り、挙兵への参加を求めた。三成は当時謹慎中であったため署名はしていないが、この文書は事実上三成によって発せられたものといえる。

E

h

1597年に始まった○○の役は、翌98年の豊臣秀吉の死により在朝鮮部隊の撤収が決定され、三成は浅野長政とともに撤収の任にあたった。

F

a

1583年の○○○の戦いでは、三成はいわゆる○○○七本槍につぐ奮闘を見せた。

F

e

三成は、豊臣秀吉が織田家の部将として○○城主であった頃に秀吉に見出されて仕え始めた。

G

b

1589年、豊臣秀吉による北条氏攻めに際して三成は館林城・忍城などの攻撃を指揮し、忍城では城を水攻めにするため○○○と呼ばれる全長28kmに及ぶ堤を築いたものの水攻めは失敗し、先に小田原城が降伏したことによりようやく忍城も開城した。

G

e

石田○○は三成の兄で、1593年から99年まで堺の奉行を務めた。関ヶ原の戦いでは三成の居城を守備したが、西軍の敗北後に東軍に城を攻められ、一族とともに自害した。

H

a

1592年の○○の役に際し、三成は渡航部隊の輸送や在朝鮮部隊の督励などを務め、碧蹄館の戦いでは大勝を収めた。

H

e

関ヶ原での本戦の3日前に出された書状のなかで三成は西軍諸将の士気の低さを嘆いているが、そのようななかで、○○○○○の一命を捨てて働こうという覚悟を賞賛し、島津義弘・小西行長も同様であると述べている。

I

a

○○○○は関ヶ原の戦いで三成に与し、徳川家康の弾劾状に署名し諸将に檄を飛ばしたが、一方で三成の挙兵準備の風説を家康の家臣に通報するなど保身工作も行っていた。

I

f

1599年、三成が○○○○ら7人の武将の襲撃を受け、引退に追い込まれるという事件が起こった。○○○○は朝鮮出兵の折に三成らの報告により豊臣秀吉の怒りを買って召喚されており、三成を深く恨んだとされている。

ヨコ

a

A

1587年に九州を平定した豊臣秀吉は凱旋の途中で筑前国筥崎にしばらく滞在し、大友氏と龍造寺氏との戦いの兵火により荒廃していた○○の町の再興を三成らに命じた。

a

D

岡崎10万石の領主であった○○○○は関ヶ原の戦いで東軍に属し、本戦での勝利後に三成の居城を攻略し、逃走した三成を捕らえるなどの功を挙げた。これらの功により、筑後一国32万5000石を与えられ、柳川城を居城とした。

b

B

1591年、南部一族の○○○○が南部信直に対し反乱を起こすと信直は豊臣秀吉に救援を要請したため、秀吉は徳川家康らの軍を派遣し、三成も軍監としてこれに同行した。

b

G

三成は、自身の所領が4万石であった時にそのうちの1万5000石を与えるという破格の待遇で○○○(清興)を召し抱えたとされる。○○○は関ヶ原の戦いで石田隊の先鋒として黒田長政隊などと戦い討ち死にしたが、その奮戦ぶりは語り草となった。

c

E

1600年、関ヶ原の戦いに敗れて捕らえられた三成は、京都の○○河原で処刑された。

c

G

1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は、近江国の○○川に関を設けて諸大名が東下するのを阻止した。

d

D

関ヶ原での本戦において当初戦局は一進一退を続け容易に勝負が決しなかったが、かねて東軍に内応を約束していた○○○○○が寝返って西軍を攻撃し始めたのを機に東軍への寝返りが相次ぎ、西軍は総崩れとなった。

e

A

1595年、秀吉から関白職を譲られていた○○○○が謀叛の疑いで切腹させられるという事件が起こった。三成は秀吉の意を受けて○○○○の行動を調査するなどこの事件に関与していたため、事件に連座して処罰された大名たちから恨まれることとなった。

e

E

○○○○○は毛利氏の外交僧として活動し、後に伊予国などに所領を与えられて豊臣政権を構成する一大名ともなった。関ヶ原の戦いでは三成らとともに西軍の挙兵を主導し、戦後三成・小西行長とともに処刑された。

f

D

1585年に関白に任じられた豊臣秀吉は、慣例に従って十二人の諸大夫を置いた。三成はその一人に選ばれ、従五位下○○少輔に任じられた。

f

H

三成の嫡子の○○は、三成が関ヶ原の戦いで敗れると仏門に入れられ、徳川家康への助命嘆願が認められて僧として長寿を全うしたとされるが異説もある。

g

A

1600年、徳川家康が会津の○○○○を攻めるため上方を離れると、三成は上方で挙兵し諸大名に参集を呼びかけた。

g

F

1591年、○○○が秀吉から切腹を命じられるという事件が起きた。この事件の背景として、秀吉側近として大きな勢力を形成していた○○○と、同じく秀吉側近であった三成らの一派との勢力争いを想定する見方がある。

h

D

1591年、前年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした際に参陣しなかったため戦後に改易された○○○○と葛西晴信の旧領で旧臣らによる一揆が起こり、三成は陸奥に派遣されたが、伊達政宗らにより一揆が鎮圧されたため相馬から引き返した。

i

A

1595年、三成は北近江に19万4000石の領地を与えられ、○○○城主となった。

i

E

一般に、豊臣政権の実務を担った三成ら5人の家臣を○○○、秀吉死後の政権を担当した徳川家康ら5人の有力大名を五大老と呼ぶが、当時そのような特定の職名が存在したわけではなく、○○○の側では自らを「年寄」、五大老を「奉行」と称していた。

ヒント

解答