知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(26)大内義隆 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール
※図1- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント
※図2ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(26)大内義隆の解答
タテ
A |
a |
義隆の母は長門守護代○○○○の娘である。 |
A |
f |
義隆の父の義興は、前将軍の○○○○(義材・義尹)を擁して大軍を率いて上洛し、幕政を掌握した。 |
B |
c |
1551年、義隆は家臣の陶隆房(晴賢)の謀叛に遭い○○○で自害した。 |
B |
g |
義隆は○○○天皇即位式の資金を献上するなどして、1536年に念願であった大宰大弐に任じられた。 |
C |
d |
陶隆房の謀叛に際しては、関白○○○○をはじめ、義隆の庇護を受け山口に下向していた公卿もことごとく殺害された。 |
E |
a |
大宰大弐に任官した義隆は、○○○と呼ばれる復古的な様式の文書を発給した。 |
E |
f |
陶隆房の謀叛計画は、当初は義隆を隠居させ義隆の嫡子の○○を立てるというものであった。 |
F |
b |
○○○○は義隆に従属してその権勢を背景に勢力を伸ばし、謀反により大内氏の実権を掌握した陶晴賢を滅ぼすなどして中国地方のほぼ全域に領土を広げた。 |
F |
f |
義隆が家督を相続する前の1523年に寧波の乱が起こり、以後は大内氏が○○○○と呼ばれる日明貿易を独占した。 |
G |
c |
石見津和野城主。大内氏から大宮姫を迎えて妻とした。1551年に義隆が陶隆房の謀叛により死亡すると、53年に陶氏打倒の兵を挙げ、55年の再挙兵で毛利氏と呼応して陶氏を滅ぼした。 |
G |
g |
1541年、義隆は銀山城を攻め落とし安芸守護の○○氏を実質的に滅ぼした。 |
H |
b |
1537年、義隆は○○○○から幕政に参画するよう求められて上洛を計画したが、領国経営を重視して中止した。 |
H |
f |
○○○○は、義隆の父・義興の代から長門守護代を務めた大内氏の重臣。陶隆房の謀叛の際には消極的ながらも隆房を支持した。 |
I |
a |
肥前の戦国大名。分家の出身で本家の家督を継いだため大内氏と結んで後ろ盾とし、義隆から山城守に推挙され「隆」の字を与えられて改名した。 |
I |
g |
義隆は○○○の玉堂宗条から禅を学んだほか、天台宗・真言宗の高僧を招いて密教の仏事を行った。 |
ヨコ
a |
A |
○○○○は義隆の信任を受けて奉行人を務めた文治派の中心人物であり、陶隆房を中心とする武断派から敵視され、隆房の叛乱に際して殺害された。 |
a |
F |
大内氏は、百済の聖明王の第三子○○○○を祖とすると称する氏族である。 |
b |
B |
義隆自身はキリシタンとならなかったが、○○○○を引見して領内での布教を許可した。 |
b |
G |
1542年、義隆は大軍を率いて出雲の尼子氏を攻めたが難航し、翌年退却する際に養子の○○が水死するという結果になった。 |
c |
B |
1548年、義隆は将軍以外の武将としては異例の○○○という高位を与えられた。 |
d |
D |
義隆は朝廷から○○○○を招いて政務にあたらせるなど、有職故実を重視した。 |
e |
A |
有職故実に精通した公卿である三条西実隆の著作『○○○○○』は、有職故実に多大な関心を払った大内義興・義隆父子との問答をまとめたものである。 |
f |
A |
8ヶ国の守護に任じられ、中国地方において大きな勢力を有した大名。1542年から翌年にかけて義隆が行った遠征で大内氏を破った。 |
f |
G |
室町時代に大内氏により出版された刊本を「○○○」と呼ぶ。義隆の代には枡形本『聚分韻略』が刊行された。 |
g |
D |
義隆の死後に陶隆房により擁立された大友晴英は、大内○○と改名して大内氏の当主となった。 |
h |
C |
謀叛を起こして義隆を自害に追い込んだ陶隆房は、○○○○(義鎮)の弟で大内氏の血を引く大友晴英を傀儡の当主として迎えた。 |
h |
G |
1528年に大内氏の家督を継いだ義隆は、陶隆房の父である○○○の補佐を受けて安定した統治を行った。 |
i |
B |
○○○○は北九州の戦国大名。九州への進出を図る大内氏と先祖代々対立してきた。1536年、大宰大弐に任官して大義名分を得た義隆により滅ぼされた。 |
i |
G |
1541年、義隆は○○神社の神主家である友田氏を滅ぼして桜尾城を支配下に収めた。 |
ヒント
解答
(25)伊達政宗の解答
タテ
A |
b |
輝宗の小姓から政宗の傅役となって常に政宗に近侍し、天下の陪臣と称された。小十郎の通称で知られる。 |
A |
f |
伊達氏の分国法は、1536年に伊達稙宗が定めた○○○である。 |
B |
a |
「政宗」という名は、文武に優れ伊達家中興の祖と評された九代目当主の○○○○政宗と同名であり、元服の際に父の輝宗が期待を込めて名乗らせたものである。 |
C |
c |
関ヶ原の戦いの直前に政宗は徳川家康から49万石余を与える約束を得ていたが、和賀忠親が○○○○の領地で起こした和賀一揆を支援していたことが露見して約束を反故にされ、刈田郡のみを与えられた。 |
D |
f |
政宗が大坂夏の陣において、退却中の○○○○を味方であるにもかかわらず攻撃して討ち取ったという「伊達の味方討ち」の逸話が伝わっている。 |
E |
a |
伊達秀宗は政宗の庶長子で、別家を立てて○○○藩の初代藩主となった。 |
F |
g |
1589年、政宗は○○○の戦いで蘆名義広を破り蘆名氏を滅ぼした。 |
G |
a |
伊達○○は政宗の次男で、政宗の跡を継いで仙台藩第二代藩主となった。 |
G |
c |
○○○○は政宗の母の兄であり、政宗から見て伯父に当たるが、大崎・蘆名・佐竹氏と政宗包囲網を展開するなど、政宗とは激しく争った。 |
H |
b |
政宗は豊臣秀吉の許に参陣しようとした際に、弟の○○○を当主にしようとする母によって毒殺されかけ、自らの手で○○○を殺害したとされる。 |
H |
f |
1591年、政宗は豊臣秀吉から一揆を煽動した疑いを持たれ、赦されはしたが減転封され、○○○城に居城を移した。 |
I |
a |
1590年、政宗は北条氏の○○○城を包囲中の豊臣秀吉のもとに参陣し、臣従した。 |
I |
e |
徳川氏が豊臣氏を滅ぼした大坂の役に政宗は徳川方として参陣し、夏の陣では配下の片倉隊が○○○○(又兵衛)を討ち取る功を挙げた。 |
I |
h |
伊達氏の一門である○○は、武勇に優れ、多くの合戦で功があり政宗に重用された。『○○記』(『政宗記』)という政宗の一代記を著した。 |
ヨコ
a |
A |
与市、六右衛門、長経とも称した。政宗によりスペイン・イタリアに使節として派遣され(慶長遣欧使節)、スペイン国王とローマ教皇に政宗の書状を奉呈した。 |
a |
F |
1585年、政宗は大内氏の○○○城を攻め落とし、男女800人のほか牛馬まで撫で斬りにしたとされる。 |
b |
C |
政宗の正室の愛姫は、三春城主・○○○○の娘である。 |
c |
D |
政宗の幼名。 |
c |
H |
伊達氏の本姓は○○氏である。 |
d |
D |
伊達氏は政宗の祖父・晴宗の代に陸奥国の行政を担う○○○○の職に補任され、政宗の父・輝宗も自称したとされる。 |
e |
A |
1585年、佐竹義重を盟主とする佐竹氏・蘆名氏・相馬氏などの連合軍と政宗が率いる伊達軍との間に○○○の戦いが起きた。伊達軍は敗色濃厚となったが、佐竹軍に本国の危機が伝えられて急遽帰国したため辛うじて危地を脱した。 |
e |
D |
○○○○○(姓は畠山とも)は政宗への降伏を政宗の父・輝宗に仲介してもらったことへの礼のため輝宗を訪問したが、帰り際に突如輝宗を拉致して逃走した。政宗の軍勢に追いつかれ、輝宗ともども射殺されたとも、輝宗を刺殺して自害したとも伝わる。 |
f |
A |
政宗は1567年に伊達輝宗の長男として○○城で生まれた。 |
f |
D |
スペイン人宣教師のルイス・○○○は政宗の知遇を得て布教活動を行い、1613年にキリシタン弾圧で死刑を宣告された際には、政宗の嘆願により許された。政宗の使節としてローマなどに赴いた(慶長遣欧使節)。 |
f |
H |
1589年、政宗は蘆名氏を滅ぼして居城を○○城に移した。 |
g |
B |
政宗は幼い頃に右目を失明したことから○○○と通称される。 |
g |
E |
政宗は豊臣秀吉の死後徳川家康に接近し、長女の○○○(天麟院)を家康の六男の松平忠輝と婚姻させた。 |
h |
B |
1600年の関ヶ原の戦いは東北地方にも波及し、最上領に○○○○配下の直江兼続の軍が侵攻した。東軍に属した政宗は最上氏に援軍を送り、最上氏とともに直江軍を退けた。 |
h |
G |
政宗は江戸幕府から警戒されるのを避けるため仙台城に○○○を設けなかったとされる。 |
i |
A |
1590年、豊臣秀吉により所領を没収された○○○○と葛西晴信の旧領で一揆が起こった。政宗はこの一揆を鎮圧したが、煽動を疑われて本領を没収され、かわりに○○氏・葛西氏の旧領を与えられた。 |
i |
E |
小高城を居城とした陸奥国南部の戦国大名。伊達氏と激しい抗争を繰り返して独立を維持し、豊臣秀吉から本領を安堵されることにより滅亡の危機を脱した。 |




