知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(16)上杉謙信 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール

- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(16)上杉謙信の解答
タテ
A |
a |
1577年9月15日、謙信は能登の七尾城を攻略した。さらに23日、七尾城が落城したことを知らずに救援に向かっていた柴田勝家を大将とする織田軍を、加賀の○○○(湊川)で破った。 |
A |
d |
謙信は父の為景が隠居する際に林泉寺の○○○○に預けられ、その教えを受けた。 |
B |
b |
1561年の第四次川中島の戦いでは、謙信は武田方の海津城の背後の○○山に陣を構えた。 |
B |
d |
イラクサ科の多年生草本の苧麻から取った繊維を○○という。越後はこの代表的な産地であり、謙信の財源となっていた。 |
C |
b |
謙信の父の長尾為景に擁立された傀儡の越後守護。長尾晴景と景虎(後の謙信)が争った際には両者を和解させ、景虎を春日山城主とした。 |
C |
g |
謙信の幼名。 |
D |
d |
1561年に行われた第四次川中島の戦いで、上杉軍は武田信玄の弟○○などの武将を討ち取った。 |
D |
f |
武田信玄が今川家を含めた三国同盟を一方的に破棄して今川家を攻めたため○○○○は武田家と断交し、長年争った謙信と同盟を結んだ。その際に謙信は○○○○の七男を養子として迎え、上杉景虎と名乗らせた。 |
E |
a |
魚沼郡上田荘を根拠地として謙信と対立していたが、謙信の姉との政略結婚により和睦し、以後は謙信を支えた。1556年に謙信が引退を宣言した際には説得してこれを撤回させた。 |
E |
f |
越後北部の、阿賀野川以北の国人領主の総称。謙信の父の長尾為景の代から長尾氏と抗争を続けていた。 |
F |
e |
平良文・良茂の血筋から出て、平安時代後期以降、関東地方に勢力を有した氏族を総称して○○○○○と呼ぶ。謙信は、このうちの一つである長尾氏から分かれた越後長尾氏を出自とする。 |
G |
c |
1560年、謙信は上杉憲政とともに関東に遠征し、○○○○を関東公方に擁立した。 |
H |
a |
江戸時代の陽明学者で、歴史書『日本外史』の著者。今川氏真が武田領への塩留めを行った際に、謙信がこれを批判して信玄に塩を送ったという逸話を賞賛した。この逸話は「敵に塩を送る」という故事として知られる。 |
I |
b |
1578年、謙信の養子のうち景勝を支持する勢力は、謙信の側近であった○○○○の未亡人が危篤状態の謙信の耳元で「跡目は景勝か」と尋ねると謙信がうなずいたと発表したが、景虎派はこれを認めず、以後約1年にわたる後継者争いが起こった。 |
I |
g |
1552年、謙信は上洛して○○○天皇から従五位下弾正少弼に任じられた。 |
ヨコ
a |
A |
謙信は○○○○から偏諱を受けて「輝虎」と名乗った。 |
a |
F |
越後の国人領主。2度謙信に背いて1度目は武田氏、2度目は北条氏に属したが、そのたびに許された。1562年からは上野厩橋城にあって、嫡子の景広とともに上杉家の関東経略を担った。 |
b |
D |
鎌倉府の首長である鎌倉公方の補佐を職務とする室町幕府の職名。上杉氏が世襲し、謙信が上杉氏の名跡とともに受け継いだ。 |
c |
B |
「上杉本○○○○○屏風」は狩野永徳が描き、1574年に織田信長から謙信に贈られたと伝わるもので、1995年に国宝に指定された。 |
d |
F |
1577年、謙信に攻められた能登畠山氏の居城・七尾城は○○○○の内応により落城し、謙信の版図は能登にまで広がった。 |
e |
B |
北信濃の大名。武田信玄の侵攻軍を2度破るが、やがて劣勢となって越後に逃れ、謙信を頼った。謙信の援助により一旦は旧領を回復するが、再び逃亡して、以後は謙信の客将となった。 |
e |
F |
謙信は、1570年から○○○謙信という道号を名乗った。 |
f |
A |
謙信は○○○○を篤く信仰し、自らをその生まれ変わりと信じていた。 |
f |
G |
1576年、謙信は○○○第十一世の顕如と和睦し、長年続いた一向宗との敵対関係を解消した。 |
g |
B |
越後国の国人領主。謙信に属してからも自立性が強く、1568年には武田信玄と結んで謙信に反抗したが、後に帰参した。 |
g |
G |
謙信は、総攻撃の際に本陣に掲げる「○○○」の旗から「越後の龍」と通称された。 |
h |
A |
1560年8月に春日山城を発ち関東遠征に乗り出した謙信は、翌年3月に関東の諸将を従え10万ともいわれる大軍で北条氏の○○○城をした包囲したが、北条方が籠城に徹したため閏3月には攻略を断念して包囲を解かざるを得なかった。 |
h |
D |
1561年、謙信は上杉憲政から上杉家の名跡を譲られるとともに「○○」と名乗った。 |
h |
F |
謙信は1578年に死去した。死因は○○○であったと考えられている。 |
i |
A |
1572年頃、武田信玄は西上作戦を実現するために工作を行って越中国などの○○○○と謙信を争わせ、背後の謙信を越中方面に釘付けにした。 |
i |
E |
1570年、謙信は共通の敵である武田信玄に対抗するため○○○○と同盟を結んだ。 |
ヒント
解答
(15)武田信玄の解答
タテ
A |
b |
1572年、信玄は三方ヶ原の戦いで○○○○の軍に大勝した。 |
A |
f |
1569年、信玄は北条氏の小田原城を包囲した後、○○○の戦いで北条軍を破った。 |
B |
a |
○○○○(梅雪)は、信玄の姉を母とし、信玄の娘を妻とする武田氏の一族であったが、織田信長の甲斐侵攻に際して武田氏から離反した。本能寺の変の直後、帰国の途中で一揆に襲われ殺害された。 |
B |
g |
○○○の戦いは、信玄と上杉謙信との間で北信濃の支配権をめぐって行われた一連の戦い。最も激戦となった第四次の戦いが有名。 |
C |
e |
信玄が定めた分国法を「甲州○○○○○」(「信玄家法」「甲州式目」)と呼ぶ。 |
D |
B |
1558年、信玄は甲斐○○○を建立するため、信濃○○○の本尊を甲府に移した。 |
E |
a |
武田氏時代に始まると伝えられ、江戸時代を通じて山梨・巨摩・八代の甲斐三郡で通用した金貨を○○○と呼ぶ。 |
E |
e |
信濃国の豪族。領地を追われた後信玄に仕えた。1550年に信玄が攻略に失敗して大敗した村上義清の城を、知略を用いて単独で攻略した。 |
F |
a |
兵法書『孫子』の一節を出典とする、信玄が用いた軍旗の通称。 |
F |
f |
武田氏には、安芸国に在国した安芸武田氏、安芸武田氏から分かれて○○国守護職を相伝した○○武田氏などの支流が存在する。 |
G |
b |
「信玄」は出家後の法名であり、諱は「○○」である。 |
G |
e |
武田○○は信玄の四男。信玄の死後に武田家の当主となったが、1582年に織田信長の侵攻を受けて自害し、甲斐武田家は滅亡した。 |
H |
a |
1536年、父信虎に従って出陣し、平賀源心が籠もる○○○城を計略により落城させたのが信玄の初陣とされるが、この逸話は史実ではないと考えられている。 |
H |
f |
室町幕府最後の将軍。織田信長に擁立されて将軍となったが後に対立し、信玄・本願寺・浅井長政・朝倉義景らに働きかけて信長包囲網を成立させた。 |
I |
a |
信玄の弟の武田○○○(信廉)は絵画が巧みであり、「武田信虎像」「武田信虎夫人像」が国の重要文化財に指定されている。また、風貌が信玄に酷似しており、信玄の影武者を務めたともいわれる。 |
I |
d |
諱は晴幸。一般には信玄の軍師として知られる。従来実在を疑う説が強かったが、近年の新史料の発見により実在が確認された。 |
I |
h |
信玄の幼名は○○(勝千代とも)である。 |
ヨコ
a |
A |
信玄を中心とする甲州武士の事績などを記した書物。信玄の家臣・春日虎綱(高坂昌信)の口述を書き留めたという体裁をとる。 |
a |
G |
1521年、信玄は武田信虎を父、○○夫人(○○信達の娘)を母として生まれた。 |
b |
C |
信玄が富士川に築造した堤防の総称。 |
b |
F |
1550年、信玄が村上義清の○○城を攻めて敗退したことを○○崩れと呼ぶ。 |
c |
B |
武田○○は信虎の次男で信玄の弟。信虎は信玄よりも○○を愛し、○○に家督を継がせようとしていたとされる。 |
c |
F |
○○○○は信玄の五男で養家の家督を継承した。信玄の死後、高遠城主となり、織田信長の侵攻に抵抗して討死にした。 |
d |
A |
信玄・勝頼の家臣。譜代家老衆。はじめ飯富姓であったが、兄の飯富虎昌が信玄嫡男の謀叛事件に連座した後に改姓した。長篠の戦いで討死した。 |
d |
E |
武田・北条・今川の3家の間に同盟が成立したことにともない、信玄の娘が○○○○の正室となった。 |
e |
B |
1541年、信玄の父である武田信虎が娘婿である○○○○を訪ねて駿河に赴いた際に、信玄は駿河との国境を封鎖して信虎を追放し、武田家の家督を継承した。 |
e |
F |
武田氏は○○○○義光の通称で知られる源義光を始祖とする氏族である。 |
f |
A |
臨済宗の僧。信玄に招かれて恵林寺に住した。織田信長が武田家を滅ぼした際に、信長の敵をかくまい引き渡しを拒んだため、焼討ちを受けて焼死した。 |
g |
D |
○○○○は、清和源氏の流れを汲む信濃国の豪族。信玄に攻められて降伏し、信玄の娘を妻として迎えて武田の一門となった。 |
h |
D |
1573年、信玄は三河国○○城を攻略した後に病の悪化のため一旦甲斐に戻る途中、信濃国伊那郡駒場の地で病死した。同城を包囲中に城から聞こえる笛の音に誘われて本陣を出たところを城から狙撃されたのが信玄の死因であるとする異説が存在する。 |
h |
F |
1568年、信玄は北条家を含めた3家の間で結ばれていた同盟を破棄し、○○○○の領地である駿河に侵攻を開始した。 |
i |
A |
信玄の嫡男。信玄と不和になり、謀叛の疑いをかけられて幽閉され、自害した。 |
i |
D |
信濃守護。信濃国中央部を領していたが、信玄の侵攻を受けて1548年の塩尻峠の戦いで大敗し、1552年頃に信濃を追われた。その後は三好長慶・上杉謙信・蘆名盛氏らを頼り、会津で家臣に殺されたという。 |